15. 糸
街路樹の根元で、鳥が一羽死んでいた。
特別珍しい光景ではない。種類も普通のキジバトだし、急に寒い日が続いたから、そういうこともあるだろう。
しばらく前までは茶色く枯れた葉をつけていた街路樹も、もうそれらをすっかり落としてしまっている。見た目は惨めなものだが、おかげで冬の日差しがこぼれるようになった。夏の間は日陰になっていたことを思い出すと、自然とはうまくできているものだ、と感心する。
ハトが足元で死んでいるということを、通行人は誰も気が付かない。落ち葉に隠れていることもある。木がその眠りを、妨げないようにしているのかもしれなかった。
わたしはタバコを一本吸う間、それを見るでもなく眺めていた。面白いものではないし、身体が冷えると昔事故に遭ったときの傷が痛む。だから長くそこにいられるわけではないのだが、他者の死を見つめることで、自分がどこから来て、どこへ行くのか、なんとなく意識させられることに、意味があるのではないかと思う。
わたしは職業哲学者ではないので、喫煙が終われば、そそくさとオフィスに戻る。
数年前から建物内での喫煙が全面禁止になって以来、煙が恋しくなると通りへ出なければならなくなった。最初の頃は非常階段に出ていたのだが、これも法律が変わり、アラームが設置されて今はもう気軽に開くことができない。どうも世間は、愛煙家に厳しい。
これ以上迫害されてはかなわないから、人通りの多い正面玄関は避けなければならない。
裏口に出てタバコに火をつける。休憩はたいていここで過ごす。立体駐車場と倉庫が続く通りなので人気がなく、静かなのは居心地がいい。角を曲がればカフェがすぐそばにあるので、欲しくなったらコーヒーもすぐ買える。
今日もまだ、ハトの死体がそこにある。
本来ならば、毎朝の清掃員が通りを掃除してくれるので、すでに片付けられてなくなっているはずだった。しかし先週の大雨で、近隣ではひどい水害があったので、そちらを優先的に片付けているというニュースがあった。よって街の中はすこし乱雑になっているが、誰も構う者はない。少しくらいの空き缶や、誰かが捨てたのか失くしたのか、宝くじが道に落ちていたところで、生活に支障はないからだ。
ケースからシガレットを一本、出して火をつける。ハトから目を離すことはなく。物はいつも同じ所に入れてあるので、いちいち見る必要がないのだ。もちろん、死体をじっと見る必要もないのだけれど。
何かが気になる。
たぶんそれは、死体から出ている白い糸のようなもののせいであると思われる。
死体は半分ほど、風に飛ばされてきた落ち葉に隠れているのだが、その隙間から、なにやら細長いものが、ゆらゆら伸びて揺れているのだ。それはミミズのようにも見えたがそこまで体表は濡れてはおらず、キノコのようにも見えて、しかし時々伸び縮みしているようでもあった。
「あら」
突然の声に振り返った。受付に配置された新人の女の子が、紙コップを両手に持って、そこにいた。目線はわたしにではなく、先程までわたしが眺めていた、木の根元のそれへと注がれている。わたしに向けられた声ではなかったと気が付いて、わたしは少し居心地が悪くなる。
受付嬢は大変な仕事だ。一日中人に見られ、どんな相手にも笑顔を向けなければならず、休憩時間ですら人目についてはならない。部署に接点はないものの、人目を避けて休憩する者同士、自然と裏口を利用するので、顔見知りになっていた。
「珍しい、普通は山にいるものなのだけれど」
年若い受付嬢は、同僚の分のコーヒーも買いに行かされていたらしい。手がふさがっているのでドアを開けてやると、にっこりと笑ってそう言った。自他ともに認めるぶっきらぼうなわたしには、とても真似できそうにない笑顔だ。
「あれが何か、知ってるんですか?」
「わたしの田舎には昔はよくいたと聞いています。最近はあまり見かけないかな、私も久しぶりに見ます」
話に身を入れて聞きたいのに、わたしはついその、赤く彩られた唇を見てしまう。不躾なのは承知の上だが、あまりにもはっきりとして鮮やかなのだ。受付嬢はそれに気が付いているのかいないのか、小首を傾げて微笑んだ。
彼女が手短に説明したところによると、それは寄生虫のようなもので(しかし、それが線虫なのか菌類なのか、わかってはいないそうなのだが)、死にそうな個体に入り込むのだそうだ。そして、中で分裂して「網」を広げていく。全身を繋げて、動けるようにするためだ。
「その間、光合成しなきゃいけないみたいで、ああやって触手を出すんですよ。あれはハトかしら。昨日からあそこに? じゃあ、明日くらいには動き出すでしょうね」
手に持ったコーヒーを一口含んで、受付嬢はなんだか楽しそうだ。ずいぶんと虫に詳しいと思ったら、子どもの時に幻想動物の専門家が、学校でのフォーラムで話をしに来たのだと言う。ゾンビブームだったこともあり、その関連性の指摘が面白かったので、よく覚えているのだそうだ。
「あまり研究が進んでいないのは、寄生した生き物として、全く違和感のない行動をするからなんですって。脳に網を張って寄生するのに、逆にその知識に引きずられてしまうんだそうですよ」
そして、自分が何者だったのか忘れてしまうらしい。だからもし、人間に寄生したとしても、ゾンビのように奇妙な行動をとることはなく、家族でさえも死んだことに気が付かないはずだ、というのである。例えばあのハトだったら、普通に起き出して飛んでいき、どこかでパンくずでも拾って食べたりする。逆に、そんなことしかしないのだ。
「変な生き物ですよね」
生きた個体に寄生することはない、ただ「そのもの」としての生涯を全うするだけの生き物。
受付嬢は穏やかな笑顔で会釈をして、コーヒーを持って行ってしまった。わたしはその後ろ姿を見送って、もう一度ハトの死体を見る。いつの間にか、白い糸が三本に増えている。
そうか、鳥だったら飛ぶこともできたのか。
そっちのがよかったな、と少し残念に思った。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。