17.輪を踏む
わたしが通っていた学校は、幼稚園から高校まで一貫校だ。
元々は教会だった。最盛期にはかなりの規模を誇ったらしい。
幼稚園に隣接する聖堂は年代物のステンドグラスで知られており、今でも一般開放されている。そこでは老人のデイケアみたいなこともしていたから、コミュニティの教育・介護を、一遍に引き受けていたと言って過言ではないだろう。端にはちゃんと、医療院と薬局もあった。
戦後になると宗教施設は更に勢力を失い、土地財産を維持することができなくなった。
果樹園や薬草園など、外にあった土地から少しずつ切り売りされていき、いまではそれぞれが別のものーー段階別の学校、教会、職業訓練校と医療施設ーーとして、同じスタイルの、しかし責任者は異なる、塀のなかに収まっている。
小学校と中学校はひとつの括りになっていた。
ここは昔、修道院であったそうだ。
ほぼ長方形の校内で、面に並行して最も距離をとっている長い二つの舎が、以前は修道女と、僧の住居であった。その間にごちゃごちゃと小さな建物があり、修道者であっても男女が、むやみに出会わないようにしてあったらしい。
学校になってからは、野外運動場がある西舎が初等部、東舎が中等部といくつかの実験室に変わり、小屋は改装されて、共通の教室、図書館や食堂などになっている。
とはいえ、迷路状の通路は今も健在だ。
例えば正面玄関と秘書室から、地図上では庭を挟んで目の前にある図書館は、ぐるりと迂回しなければ訪れられないし、渡り廊下でつながった初等部と中等部の境界では、一度外のポーチに出なければ、二階へ上がれないようになっている。
だからというわけではないだろうが、学校の至る所、中庭や廊下、手頃な教室の後方にはフランス窓があって、適切に使うのであれば、そこをショートカットにしてよいことになっていた。
先ほどの、正面玄関と図書館の間にあるパティオなどは、その代表である。
西東を高い建物に、北南からも塔跡から囲まれて、ある種の植物には心地良い環境らしく、緑は豊かだが、夏は暑く冬は寒いので、憩いの場所としてはいまいち人気がない。第一、どこからも丸見えなのがよろしくない。狭くはないが、四方の廊下がガラス張りなのは、秘密を好む子どもたちにウケが悪かった。
生徒たちはここを、もっぱら移動するだけに使っていた。
雨が降ると当然濡れるが、土砂降りでもない限り、誰かしらがそこを利用していたように思う。
面白いのが、近道なのだから好き勝手歩けばよいものを、誰もがきちんと、芝の上についた「獣道」に沿って移動することだった。
皆がガラス戸の下に敷石があり、そこから土のむき出しになった線を通って、中央の円形花壇を面倒だから踏みつぶすか(当然、見つかると叱られる)きちんと回るかして、また違う道を行く。更にショートカットしようとは、一人も思わないらしい。
獣道の中に一つ、不自然に曲がりくねっているところがある。
これは元管理人室があった部屋の前のドアに通じている。今は住み込みの管理人などいないし、周囲も器材倉庫などだから、ほとんど使われない。ただ唯一、アスレチック室で体育があった後、食堂に向かう時だけ便利な道だ。
そのように、あまり人の興味を惹かない獣道だから、曲がっていることの理由を知る生徒が、少なくともわたしの周りにはいなかった。
栗のような実をつける大木をちょうど避けるように曲がっているので、わたしはすっかり、それが理由なのだと信じ込んだ。つまり、秋にイガが落ちてくるのを避けるため、そうでなければ花の蜜が垂れるなどで、樹を迂回しているのだと。
それまで、体育の後に給食だったことがなかったので、知る機会がなかった。
謎が謎でなくなったずっと後になって、その栗に似た実が綿のように柔らかいイガに包まれていること、そしてついでに、かなり渋いことを覚えたが、それは蛇足である。
二年生が終わる少し前、遠くから見ていてふと、そこにキノコの丸い輪を見つけた。
見たこともないキノコで、頭の部分が白くて、かさとは呼べないくらい薄っぺらい。最初は、誰かが切った紙を、地面に刺して遊んだのだと思った。あるものは人の形に見えたし、手に見えなくもなく、全体的には同じようなぺらぺらが、驚異的なスピードで増殖していた。朝気が付いて、午後に見ると輪は二重になっていた。
それを担任に報告した。
次の日には庭は立ち入り禁止になり、時々それをホウキで散らしている用務員さんを見かけたが、夏休みを挟んだ後にはなくなっていた。
けれども、以前そこはしばらくの間通行禁止にされており、ドアは閉じられ、輪跡の前には小さな看板が建てられた。
三年生になって新しい担任が説明した話では、あれは危険なキノコだという。
感染力が強く、毒素のせいで特殊な木材を使用しないと、周囲の柵さえも変質してしまう。けれども対処を知っていれば問題ないので、心配いらないとも付け加えられた。
むやみに近寄らないよう、厳命された。
その年、わたしのクラスは校内で唯一、金曜日の昼前に体育があったのだったが、まだ暑いので体育館は使用していなかった。だから、近道が使えなくても不満はなかった。
それでも新学期始め、忠告は口酸っぱく繰り返された。
うんざりしていたそれも、初冬の前には、すっかり忘れ去られていたけれど。
ずさんな管理に思えるだろうが、ひと昔前の学校なんて、結構そんなものだった。
まず間違いだったのは、大人の中にはそのキノコがどういうものであるか、実際に経験したり見たりして知っている人がいたので、コントロールできると思っていたこと。そして、何も知らない現代の子ども達の、精神の脆弱性を甘くみていたことである。
その秋の終わりに、フランスからの転入生が来た。
この子はあまり英語が上手ではなかったが、勇気があって話すのを躊躇せず、明るくて人懐っこい可愛らしい女の子だったので、たちまちクラスの人気者になった。
学級カーストの下位にいるわたしは、挨拶くらいは交わす程度で、ほとんど会話らしい会話をしたことはなかったが、それでもクラス内の雰囲気で、その子の様子をなんとなくは知っていた。
初雪が降ったその日、今年初めて室内で体育をした。
そしてそれが、その年唯一、あの獣道が開放された日にもなった。
わたしは見ていなかったが、後に聞こえてきた会話を繋げてみるに、誰のせいというわけでもなく、ただそれに気が付かず、転入生は柵の向こう、キノコの境界を踏み抜いてしまったらしい。
もう地面をみても菌類の白い欠片さえ残っていなかったし、変色した芝生の上に輪の跡を見ただけでは、それが危険とは思わなかったのだろう。彼女にとって外国語の忠告文が、目に入らなかったこともあるかもしれない。
けれどもその時は何事もなく、食堂へ行ってスープを食べた。冬の間、学校給食はほぼ毎日汁物が出るのだ。当たり前の昼食だった。
午後の授業までの休憩時間になって、それは起こった。
食べるのが遅いわたしはチャイムが鳴るぎりぎりになってやっと、食堂から校庭に出た。シェードがある隅の水飲み場で手を洗っていたのだが、ふと気が付くと、いつもなら走り回っている面々が、ひと固まりに集まって何やら騒いでいる。
近づいてみれば、野次馬が距離を取る中心にぽつんと、女の子がうずくまっているのが隙間から見えた。泣いているようで、ときどきヒステリックに、叫び声を上げる。
わたしは祖母がフランス人であったので、それなりに第二外国語をまじめに勉強していた。だからそれが、「見ないで」とか、他者を拒絶するような意味であることにすぐに気がついた。
いつもだったらそんなことは絶対にしないのだが、でもなぜかその日だけは躊躇いもなく、外野をかき分けてその子に、マフラーを被せてあげたのだった。
ママのおさがりのちょっと野暮っぽい防寒具は、肩掛けといえるくらい幅が広く、女の子の頭から上半身を、すっぽり隠して見えなくしてくれた。
「Pas de soucis」
スキンシップが苦手なわたしがたった一言だけ呟くと、女の子は小さな声で答えたが、なんと言ったのかはわからなかった。
すぐに先生が来て救急車が呼ばれ、わたしたちは正面玄関の来客用ソファで、それを待った。
やってきた医師らでは何もできないということで、大人が集まって相談し、月番の魔女に連絡することになった。
ヒトの理の外にある事象が起こった場合、それを解決するため、当番の魔女が役所に待機しているのだと、わたしはその時初めて知った。でも担任の先生と受付のおばさんは電話番号を知らなかったので、大慌てでパソコンを叩いて調べていた。先生の横顔、鉤鼻の形が、なぜか印象に残っている。
女の子はマフラーですっぽり頭を被ったままだった。
なぜかわたしの手を離さなかったので、彼女の治療ができる魔術師が来るまで、秘書室の隅で一緒に座っていた。言葉は一言も交わさなかった。
一度、学級委員長が転校生のリュックを持ってきたけれど、廊下と受付の間で門番をしていたセキュリティガードに通してもらえず、荷物をその人に手渡して、振り向きながら帰って行った。ちょっと目が合ったのに、わたしは手を振り返さなかった。
やがて、玄関の向こうから彼女が呼ばれた。
転校生はマフラーを抑えて立ち上がり、握っていた手を離したので、自由になったわたしの動きは、かえって一瞬遅れた。
そこに彼女は素早く、マフラーの隙間から覗かせた唇からわたしの頬へ、音も高らかなキスをした。
それだけ。
わたしは教室に戻り、午後の授業を受けた。先生はホームルームに戻ってきたけど、そういえば、マフラーは返ってこなかった。
治療を受けた彼女は順調に回復したそうだ。だが、あの時学校にやってきた魔女がその資質を見抜いたために、グリーンパーク近くの魔女学校へ、更に編入していって一度も戻ってこなかった。
エスカレーター式の学校で、顔ぶれが変わらないので、今でもあの時のことは話題に上がることがある。
ロンドンは意外と狭く、知り合いの知り合いの話、風の便りで、彼女の近況がわかる。なかなか優秀らしく、スコットランドの古代大学を推薦受験するのではないか、ということだ。
わたし自身とは、あれから何年も経っているし、彼女との接点は完全に失われてしまった。
それでも未だ、あの時のことを思い出すと、胸がざわめく。
毛玉だらけの防寒具から覗く、変形していながらも艶やかな唇が頬に触れた瞬間。ウサギの鼻みたいにしっとりした毛皮と、しなやかで太いヒゲの感触。
直接容姿を知る人達は、彼女が天使か妖精のようだった、と称賛する。
でもわたしはあの時の、沼地色をした、縦に裂けて多重になった虹彩の、あの子の方が好きだった。
今も将来にも、思い出すなら、あの時の彼女が良い。