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23.擬態する白鳥ではないもの

 春から夏にかけて、水路はとても賑やかになる。
 適切な気候にぶらぶら歩きを楽しむ人が増えることもそうだが、そこで暮らす水鳥が子育てを始めるからだ。
 旅鳥の多くは春早くにやってきて、まずパートナーを探す。
 だが同じ種類でも、一年中水路で過ごす個体もいるようである。これは都市部の副産的地熱、あるいは排水の暖かさに、そこで過ごす動物にとって、冬が過酷ではなくなったということなのだろう。あるいは単純に、生態系が変わってしまったためかもしれない。鳥類学者ではない私にはわからないが。
 とにかく相手を見つける時期が早いと、巣を作るにも有利である。水路にはいつも多くのものが生息している。中には鳥を狙う獣もある。安全で良い場所に居を構えることが、その年をうまく乗り越える鍵となる。
 春の卵が孵化し始める初夏には、水路も更に活気で溢れ、行き交う船量が増えることはいうまでもない。
 多くの巣が故意と過失の両方から破壊され、卵が沈められ、事故で生まれたばかりのひな鳥が命を落とす。小さな水鳥ほど大量の子を設け、そのほとんどを水路の塵に返すのだ。
 その中では白鳥の図体が大きく、若鳥も生き残り易いようである。
 代わりに、成長が非常に遅いらしい。幼鳥を見かけるのはどの種類でも夏の始め、しかし鴨や雁の産毛が抜けて巣立ちする秋になっても、彼らの幼少時代は終わらない。冬が深まり始める年末になっても、茶色のような灰色のような、産毛を残した幼鳥を見かけるほどだ。ただし、体型は親とほとんど変わらない。
 白鳥は両親が揃って子の面倒を見るので、十メートル幅に満たない水路など、堰き止めてしまうことも珍しくない。
 白鳥は優雅の代名詞にも用いられるが、実際には野蛮な鳥だ。
 水路脇の遊歩道を占拠していたら、そこは避けて通ったほうが良い。意外なほど気性が激しく、縄張り意識も強いのだ。近くで見れば太い長く、しなやかな首で攻撃されると、人間の子どもの腕など簡単に折られてしまう。
 私は一度、老婦人がハンドバッグで打ち付けて、白鳥親子を追い払うのを見たことがある。
 その時は鳥側に同情を禁じ得なかったが、数度似た立場に追い込まれてみると、老嬢の態度こそ正しかったように思われる。水路の多くの場所では、人間側に逃げ場がない。持っている紙袋は突かれれば一度で破けるし、力任せに川に引きずりこまれることもあるだろう。
 特に住み着いて長い個体などは、人間を全く怖がらないどころか、ボートにさえ気に食わなければケンカを売る。
 水路にはナローボートというものがある。一言で説明すると、キャンピングカーの舟版だ。運河交通の邪魔にならないよう、幅は狭い代わりに長さ数メートルもあって、屋根の上にバーベキューや植木鉢を置いて庭のように活用する人もいる。
 船置き場の『港団地』に定住するものもあるが、水路の方々へ移動して周るものも多い。
 そこで白鳥の縄張りを通り過ぎたり、留まってしまったりすると、ちょっかいを出され被害を被る。何もせずとも単純に、観葉植物を狙われることもある。ことに、人に慣れた大型獣は厄介なのだ。
 そういったわけで、親愛ではなく自衛の意味合いから、白鳥にはよく目を向けていた。私のよく使う水路には、一組の親子が住んでいる。自然、通り過ぎる時は、まず彼らを見つけるのが習慣のようになっていた。
 師走もそろそろ終わろうという季節、水路は夏とは全く違った様相を持つ。
 水面を浮草が覆っていた色はなく、また周囲の植物も葉落ち枯れて荒涼となる。芝が伸び悩めば管理局の清掃もおざなりとなり、水際も歩道にも投げ捨てられたゴミが目立つ。夕涼み以外、日常の移動で利用する人の通りは変わらずなので、余計それを感じられるのだ。
 藻が育たなくなれば水そのものは透明さを取り戻すが、水路は全体的に薄汚れた土色をしていた。水深が一メートルもなく、そこにヘドロが溜まっているのでそう見える。
 そういった風景では、水鳥の完全ではない白の羽根も、鮮やかで目立った。親と五羽の子どもたちは緩慢で、波紋も起こさずぼんやりしている。
 人間にとっては彼らこそが脅威たりえる存在であるが、鳥からするとこの辺は水量も多くなく、つまり舟交通、危険が少ないので比較的気を緩めていられるらしい。
 道を通り過ぎる間の観察で推測するに、毎朝パンを撒いている隣人がいるようだが、白鳥たちが近寄る頃には、もうそれは残っていない。鳩やかもめといった身軽で素早い競争相手がいるので、手軽に見える餌こそ、彼らには得難いようだった。
 大柄で満腹になるに量が必要な生き物は、例に漏れず遅鈍である。
 彼らを愚鈍と言い切るのは乱暴だが、エネルギーの消費を抑えるために身体をできるだけ動かさないことが戦略ならば、頭脳においてもそれが適用されておかしくない。少なくともこれら白鳥たちは異変にも反応が鈍く、たまの餌を前にしても悠然と振る舞って、なるほど一見には優美と言えよう。
 その麗しの団体に、今朝は何か妙なものが混じっている。
 改めて語る必要もないだろうが、成鳥の白鳥は色が白く、嘴が黄色で黒い。黒色が乗る部位は種類によって違い、この親子は嘴の付け根が膨らんで黒いコブハクチョウだ。幼鳥は『みにくいアヒルの子』で知られる通り、全体的に茶の混じった灰色をしている。
 天気の悪い日だった。
 小春日和の後は必ず霧であるように、雲が街に降りたようで、見通しの効かない朝だ。普段の風景が一段彩度を落とし、なんとはなしに目の前と現実を切り離して考えそうになる。ひどく曖昧な場面だった。
 それは道行くすべての人間がそうなのだろうか、単に平素から注視していないのか、誰もその異質の六匹目に気が付かない。
 それは鳥の家族と同じような形をとりながら、首の真ん中が不自然に角ばって折れていた。
 肘なのだ。
 口鼻である部分は赤茶けた手が、指を揃えて折り曲げてあって、手首がゆっくりと回転する角度で表情を作る。二の腕と肩へ進むほどに肌はくすんだ白色になって、胴の部分は片胸を顕にした女の半身なのだった。
 顔は見えない。
 灰色の肌は緑がかって不健康で、丸みのない乳房に肋骨が浮いている。痩せている、というよりは皮が引っ張られてそう見えた。水に沈むギリギリの骨の上に、赤く長い線がある。打ち身と思われるが、腫れもうっ血もしていない。
 鳥の頭を真似て浮かぶ女の腕に、白鳥の親子は当然のごとく寄り添っている。
 つかず離れず、時々水の中に首を突っ込んで、餌になるものを探す。手もそれに倣い、時々先で水面を掻く。幼鳥がふざけて、六羽目の翼を甘噛みした。そに羽に扮する布は焦げ、ちぎれて肌に焼き付いている。
 私は出かける予定があり、刻々とその時間が迫っていた。
 それなのにどこへ出るつもりだったのかも、いつ到着しなければ行けないのかも忘れ、ただただ六羽の白鳥を見つめている。
 一昨日、火事を見に行った時のことを思い出していた。
 夜中に外が騒がしいので目を覚まし、いつまで経っても静まらないので、寝間着にローブを引っ掛けて出てみたのだ。
 乾燥を肌で感じられるほど、雲がなく澄んだ夜空の、刺すように寒い夜だった。
 北へ一本向こうの通りに、数台の消防車が停まっていて、その周りを野次馬が囲んでいた。通りの横には水路があり、目と鼻の先には橋もある。その上と、反対側にも警察と消防が来ていた。
 時間を顧みず、謹むにしてはよく通る声で人々が囁きあうのを聞いてみると、火事はもう間違いないのだが、ナローボートから出火したらしいのだ。
 火元と接していたわけでもないのに、数艘へ燃え広がった。放火の可能性もある。怪我人が出て、救急車を呼んだと誰かが叫んでいる。 
 船であること以外はさして珍事でもないのに、事態がすんなり収拾できないわけは、停泊する場所の問題だった。
 例えば我が家の前で起こったのなら、消防車を車道に止めてもその横の歩道を越え、柵で隔てられた水際の遊歩道まで、なんとかホースを伸ばすことができる。ところが消火を必要としている場所は、この先の緑地帯の中にあるのだ。大型の車両など、入れる道そのものがない。反対側は工場の倉庫で、一番近い道路ではしごを伸ばしてみたところで、上から水路の面すら見えないだろう。
 私はちょっと気になって反対側に渡り、ある住居ビル横の遊歩道から、燃えている船を見ようとした。同じように興味を惹かれた住人たちが、人が交差もできないほど狭い道、柵から身を乗り出して水路を見ている。
 きな臭い匂いは明らかに石炭を使った暖炉のそれではなく、何を犠牲に生じたものか、考えそうになってわたしは息を止める。煙よけに立てたローブの襟の中は、柔軟剤のにおいがした。
 団地と水路の間、何にもならないので緑地としたその場所は、公園とは名ばかりで数台のベンチがある限り、古いレンガ道は木の根に掘り起こされた凸凹になっている。街頭が数本並んでいたはずだが、今は何も照らしてはいなかった。私は夜その道を使ったことがなかったので、火事で停電しているのか、元々明かりが機能していなかったのかはわからない。
 街の中、ぽっかりと落とされた暗闇の中で、水が赤く揺れていた。
 周りは残り火程度に落ち着いていたが、その中の一つはまだ激しく燃えている。影でしかわからない周囲の人々が、必死で水をかけていた。水路には、おそらく管理局から来たボートが浮かんでいる。人影の手元、チラチラ光る小さな緑は無線だろうか。火元、強い光源に近いが故に、人々の表情は定かに見えなかった。
 あの時も私は、白鳥を見た。
 注目を浴びるその一帯から、一つか二つ離れたナローボートの影にいた。近隣に泊まるボートの人々は、眠っていられず明かりをつけていたけれど、それらの船は沈黙を貫いていた。留守だったのか、放棄されたものだったのだろう。
 その偶然の、しかし燃え盛る火によっていっそう濃くなった闇に、白鳥は潜んでいたのだ。
 怯え、怪我をしているようだった。首の真ん中あたりが不自然に曲がっていて、水の流れに抵抗できずふらふら揺れる。
 私はしかし、何もしなかった。
 しばらくして川面の赤い明かりに飽き、人混みを抜けて家へ帰った。次の朝は寝坊しそうになったが、それだけの話だ。
 六羽目の白鳥が、首を回してゆっくりと私へ顔を向けた。
 目が合った気がした。爪の間に泥が挟まった嘴が、微かな動きで何かを私に訴えようとしている。
 金縛りが解け、私はとにかく水路の反対側へ向かって駆け出した。
 私の急な動きに、同じ遊歩道を通行していた人々が、一斉に振り返る。学校へ向かう子どもだけではない、通勤中の大人も何人かいる。時間を持て余していそうな、散歩中の老人も。これだけ人がいるのだ、誰かがなんとかしてくれるだろう。
 ひとりもそれに気が付かないはずはない。それでも誰も何もしないのなら、逆にどこにも支障はないという証明ではないか。
 鳥一羽どうなろうが、なんだというのだ。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。