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19.鳩に倣う

 鳩に倣い、ものを忘れることにした。
 わたしの住む団地は多くの場所と同じく、鳩に餌をやることを禁じている。集まってくる鳥の排泄物や抜け羽が、不衛生であるからだ。でも住民の何人かは文字が読めないらしく、頻繁にパンくずを中庭に撒く。だから餌がないときでも、鳩やリスがよく周囲をウロウロしている。
 わたしの隣人は鳥を毛嫌いしているので、毎朝怒号とともにベランダへやってきたそれらを追い出すのを日課としているのだが、鳩たちはそれでも懲りずに毎日通ってくる。
 あまりに学習をしないので、別の個体かと思ったがそうでもない。いくつかは確実に同じ鳥なのだ。足の指がかけていたり、変わった体色をしているので、断言できる。
 その気楽で、人を煩わせても気を病む素振りすらない獣が、羨ましくなった。
 そうして、ものを忘れてしまうことにしたのだが、最初の数回は失敗だった。
 興味があるならば忠告するが、やってみるにしても、日常生活に関することは忘れてはならぬ。
 特にルーティンに関することだ。
 朝起きて、支度にすら狼狽えるのはよろしくない。どこに何があるのか、何をどうしたらいいのか、もう一度覚えるのはひどく手間と時間がかかる。狭い家の中、一人暮らしで他に迷惑はかからなくても、単純なことができないということはそれだけで、矜持をかなり傷つけられるのだ。
 また料理という概念を忘れてしまい、生の食材を口にして体調を崩したこともある。ことに衣食住に関しては、絶対に記憶を抹消するべきではない。
 仕事に関しては、職務にも人にもよる。
 忘れきってしまうべきではないかもしれないが、だからといってやり直しが効かないということは絶対にない。また一から学べば良いだけの話だ。この辺はおおらかに対応すべきだろう。とにかくわたしに関して言えば、仕事の大部分は忘れても支障はなかった。
 逆に忘却が最も有効だったのは、エンターテイメントについてだ。
 わたしにとって、主にそれは読書である。結構な本が寝室の棚に並んでいるのだが、もうどれを読んだのか読んでいないのか覚えていない。どの本を手にとっても、新鮮で興味を惹かれる。
 習慣を忘れても文字と知識を残していたのは、以前のわたしを褒めてやりたいと思った。幼児がわからない言葉につまずくようなことはなく、文体や内容の判断も難しく感じないので、すらすら読めるのはありがたい。
 後で気がついたことだけれど、本棚の手の届きやすい、あるいは目に留まりやすいところにある本は、随分読み込まれている。
 これは以前のわたしが購入してから、擦り切れるまで読んだことを示していた。だから、これらは好みに合って当然だ。逆に埃が溜まっている積まれた本は、つまらなかったのだろう。損じはない新品同様、しかし日に焼けて打ち捨てられている。
 こうした小さな発見に以前の自分を感じながら、わたしは新しい生活に踏み出した。

 生活のリズムができたある日、裏通りを散歩した。
 駅前の商店街から家までの道は忘れてしまったので、探索するのは面白い。古い喫茶店や、細いドア一枚の建物の隙間にキオスコがあるのを見つける。表通りには大きなマンションやジム、チェーン店が済まし顔で並んでいるけれど、この辺りは元々は下町であったらしい。
 過去に街道跡であることを示す、石碑が建つ公園があった。
 公園というか、ビルと水路の間にある中途半端な緑地だ。水路にみっちりとボートが止まっているので遊歩道が暗く、外から見ると通行を躊躇わせる雰囲気がある。
 だが一度足を踏み入れてみれば、狭いながら立派なプラタナスが程よく並び、芝も刈られて道を塞ぐ枯れ葉も少ない。よく整備の行き届いた、落ち着いた空間だった。
 老人が一人、角に残った落ち葉の山をかき回していた。
「何かお探しですか?」
 手伝いが必要かと声をかけてみると、メガネをかけた男性は、ちょっと驚いた顔でわたしを見た。
「あの……前にも言いましたが、ご心配なく。羽を拾っているだけなので」
 困憊により口の中でもぐもぐと話す様子を見ると、どうやら以前に多少の面識があったらしい。反応を見るに、どうもわたしはひどく感じの悪い男だったようだ。
 親しくもないのに馴れ馴れしいかと思ったが、わたしに何が起こったのか、知らなければ始まらない。わたしは己の事情を説明した。謝罪まで必要か自信が持てずもたついていると、紳士は目をしばたたせ、少し笑った。
「今どき、おもわすれは珍しいですね。まだお若いのに」
 ものを忘れることに年齢が関係あるのかはわからないが、確かにこの時代と背景は、情報にうるさいように感じる。
 知識はあればあるほど良いような風潮があって、タッチパネルの小さな機械(なんと携帯電話であるらしい)がひっきりなしに最新のニュースを報告してくれる。でも正直なところ、ちょっと煩い。有名人の離婚問題や、株式が一円上がったの下がったの、わたしの生活に影響をもたらすとは思えない。
 ものを忘れた状態がどういうものか、老人に尋ねられてとりとめなく立ち話をする。
 そして相手のことも気になって、聞いてみた。飛ぶものといえば鳩くらいしか親しみがなく、
「野鳥の羽を集めているのですか?」
 と、質問する。おや、と老紳士は嬉しそうな顔をした。
「今日は聞いてくださるんですか。いえ、妖精の羽を集めています」
 昔から好きでしてね、と彼は肩掛けカバンから色々と取り出して見せてくれた。隠居後の暇つぶしに、と言う割りに、チラリと見せられた採集具(ごく薄い透明なケースが本のように重なって皮のカバーがついている)は高級そうだ。
 しかし、とわたしは思う。
 あるいは、そういうものかも知れぬ。
 趣味こそ、金と気力を惜しまず、手入れを怠らず、全力で挑むべきものかもしれない。以前のわたしも、それなりに本を収集していたようではないか。現在は電源も入れていないスマートフォンとやらでの情報収集も、何かの趣味に繋がるものであったのかもしれない。
 その分野に関して口数が増えるこの大人しそうな男性の様子に、わたしはぐっと興味を惹かれた。
「妖精? というと、……エルフとかドワーフとかいうものですか」
 見せてもらったそれは、昆虫のもののようで、しかし透明感があるいかにも固そうな羽の破片だった。先だけがほんの少し、オレンジ色をしている。繊細そうなのに、突風を受けてもぴくりとも震えなかった。
「これはシルフのです。ここの線が少ないので、まだ年若い個体だったようですね。妖精の本体は柔らかいのですが、羽や角などは高角質というのかな。とにかく固いので、死んだ後も残りやすいんですよ」
 わたしの知識に、妖精は存在しない。
 もっとも、幻想動物というものへの意識は、そういうものであるらしい。ある人の常識には存在しない架空のもの、別の人にとっては馴染みの深い身近なもの。なぜなのか、人の対応はこの二つにすっぱり分割されるという。実際、以前のわたしは一笑に付して、彼に軽蔑の目を向けたそうだ。
 加えて妖精に関する採集は、それを知る人たちの間でもあまりメジャーな趣味ではない。嫌悪感を露わにされることさえ、よくあるという。
「羽の根元に、片腕なり残っていることがあるんです。それがまあ、グロテスクでね。私はやらないけど、生きているのを捕まえる人もいますから、卑しい趣味と貶められがちではあるんですよ」
 なるほど、昆虫の見本と同じなわけだ。ただしこちらはずっと人に近い構造をしているので、倫理に反して感じるのもおかしくはない。
「残念ですね、キレイなのに」
 見たままに単純な感想を述べると、老人は困ったように笑った。
 妖精の羽はビクトリア時代には栞に加工されていたそうで、アンティークショップで売っていることもあるという。本から発見するのも一つの手だ。紙に挟まれ、多くは状態良好で見つかる。
 それで老人は近くの、手入れの良い古本屋をいくつか教えてくれた。「たぶん以前のあなたも、ご存知だったと思いますよ」と付け加える。「何度か近くで見かけましたから」
 話は尽きなかったが、日が暮れ、風も冷たくなり始めたので、そこで別れることになった。
 どこか座れる店に入っても良かったが、奥方が夕飯の支度をして待っているそうなので諦める。意外なほど名残惜しいのが、わたし自身も意外だった。
「もしよかったら、今度ご一緒しましょう」
 穏やかな顔の老人へ、ぜひと微笑んで背を向ける。用水路を少し進み、「ご一緒」がエールなのか採集なのか、あるいは古本屋なのかわからなくなって振り返った。
 すると老人も同じく顔をこちらに向けていた。苦笑して軽く手を振り合い、枯れ葉を蹴って家路につく。

 友人と名乗る男が訪ねてきた。
 平日、水曜日の夜も更けた頃だった。
 ひどく顔色の悪い男で、年はわたしと同じくらいか、少し上のような気がする。目の隈があまりに暗くて、年齢への正確な判断は難しかった。その上、老人もかくやあらむ猫背なのだ。
 もちろん男のことなど、覚えてはいない。
 だからチェーンをつけたまま、玄関の隙間から顔を出して対処した。わたしの態度をどう取ったのか、男は第一にちょっと眉をひそめ、わざとらしく悲壮な表情を作ってみせた。
 男は謝罪のためにやってきたと告げた。
 そんなことを突然、言われても困る。男は何度も電話をしたと訴えたが、わたしはそれを知らないと言った。これは少し語弊がある。電話の使い方がよくわからなかったこと、知らない番号と名前ばかりだったので、どの着信も拒否していたのだ。
 玄関先で、男はとにかく謝りたいと言った。
 知らない男を家に上げるつもりがないわたしは、もう知るところではないのだから、それは必要ないと固辞した。男の尋常ではない様子は酔ってでもいなければありえないことだったし、仮に酒の力を借りていないのであれば、それこそ危険だとの判断で。
 やがて男は怒り出し、よくわからない言葉で罵倒を始めた。誰かの名前もあった。あるいは名前と思しき、なにかの単語が繰り返された。
 わたしは反応を示さなかった。あまりに男の言葉が支離滅裂で、内容が掴めなかったのだ。けれど男はわたしが、そうやって彼を侮辱していると捉えたらしい。
 男が詰め寄り、わたしは思わずドアを閉めた。
 ややあって、足音も荒々しく男は帰っていった。罵詈雑言から打って変わってのそれまでの無音、永遠にも思える重たい沈黙を、知っているような気がした。
 デジャブだ。覚えてなければ、それは起こらなかったも同然なのだから。
 

 積まれて放置されていた本を読んだ。
 寒く風がうるさい夜で、わたしは晩酌にウイスキーを呑んでいた。
 酒は棚にあったという理由だけで選んだので苦く口に合わず、それだけを夜の供にするのが辛かった。なぜかはわからないけれど、口直しに何かを食べようとは、その時は一切思いつかなかった。本が欲しいと思った。酒のつまみに、何か本が欲しかった。
 適当に取ったそれは、統計に関する内容だった。
 わたしは経済に親しみはないけれど、これは専門外でもわかりやすいように書いてある。数式に、物語さえ垣間見える部分もあった。
 中々に面白く、内容に惹き込まれて、明け方まで一気に読み進めた。本を閉じてから、途中から酒の存在を忘れていたことに気がついたほどだ。
 ひょっとしたら、以前のわたしも、まだ読んでいなかったのかもしれない。積読というやつで、購入して読む時間がなく、長く忘れていたのだろうか。あるいはまた、以前はこれを、面白いと思わなかったのかもしれない。
 表紙をみつめる。簡素な書体、素っ気ないタイトル。出版しておきながら、読ませようという気概が見えない。
 それで、わたしは実験してみることにした。
 忘れる前のわたしが黙殺していたらしい品々を家中から集め、機会があるとこれらを試した。
 先月に期限が切れていたターメリックのお茶は、クセがあるけど飲めない味ではなかった。引き出しの底にあったピンク色のシャツも、派手な色だがわたしに似合う。
 もちろん全てのものが、良い方向に転んだわけではない。毛糸のブランケットはすぐ毛が抜けて掃除が大変だったし、先のシャツは一緒に洗ったタオルをピンクにした。そうして試した結果『だめだったもの』たちを、箱にまとめてチャリティセンターへ持っていく。今のわたしには、合わない物たち。
 ついでに、ベランダにも手を入れた。
 洗濯機に乾燥機能がついているので、元々使わず放置していたものらしい。立て掛けられたクモの巣だらけのすのこを捨てると、大量の鳩の羽が出てくる。巣こそないが人気がないのだ、ベランダが野鳥の休憩所になっているのは間違いない。
 よく見ると落ちている羽にも様々な色と大きさがあって、種が違うのか生えている場所が違うのか、同じものがひとつもない。灰色と紫、緑と黒。形も違うし、手触りも様々だ。
 薄桃色のモザイクグラスに似たものもあった。これはトンボの羽と思われる。指に挟むと、予想外にしなやかに曲がった。
 なるほど、コレクションすればキリがなかろう。
 タイル上に整列して眺めた羽は、惜しい気もしたがまとめて捨てた。
 棚の本は別け隔てなく、タイトル順に並べ直した。
 今は並んでいる一番右上から順番に読み、読み終わったら左側へと移動させているところだ。今度こそ面白いと思ったものは下に、つまらなかったものは上の方に分けて置く。 

 またある夜のこと、女が一人やってきた。
 女が来たのも夜だった。
 これもまた随分な見えの女で、しかし衣類そのものは清潔で上質だから、身なりに気を配る余裕のない状態にあることが推測された。
 おずおずと下から目を向ける顔さえ哀れで、わたしは思わず「どうかされましたか?」と手を差し伸べる。思いがけないことに女は、それまでの作り笑いを忘れ無表情になった。
 わたしの「おもわすれ」を簡素に説明する。女はまず心底悲しそうな瞳をし、それから深く息をついて、青白く痩けた頬をごく自然に緩ませた。
 先日の男のように危ない気配はなかったので、室内に案内する。
 なるほど、靴を寄せる仕草も自然で、居間への歩みに迷いがない。この家のことを、熟知しているらしかった。ただ、その時代に屋内にあったものなかったものが、視界を横切りいちいち彼女を戸惑わせる。
 出された茶に手を付けず、わたしの知るところ、忘れたことを女は根掘り葉掘り尋ねた。その必死の形相には、少し怯んだ。でも嘘をついても詮無きことだから、丁寧に根気よく女の疑問に答えていく。
 同じことを何回も繰り返した。どうして忘れたのか、本当に忘れたのか、どうやって忘れたのか。わたしは反芻のその間、なぜかベランダにいる鳩が気になってしょうがなかった。一羽だけ手すりに座り、物思いに耽り世界を無自覚に見下している。
 返答がだいぶ機械的になったのを最後に、女がため息をひとつ、疲れた顔をほころばせて「良かった」と声を絞り出す。草臥れた印象、気の毒なくらい暗い目の隈。それでも笑顔は明るかった。
 すっかり冷たくなった茶を淹れ直し戻ると、打って変わって寛いだ様子の女は、自分がわたしの恋人であると告白した。
 けれど、それについて深くは追求しなかった。女はわたしの過去には一切触れず、当たり障りのない話をした。天気のこと、今年のみかんの出来。本来なら取るに足らない、趣深い話題たち。
 女の穏やかな口調、しかし時に内容へ熱が入るのも心地よく、会話は楽しかった。他人を家に上げることも、懸念したほどの不安は感じない。わたしも自然と、肩から力を抜いていた。
 手土産の茶菓子を選ぶ時だけ、女は以前のわたしに触れた。だがそれも、ただ「チーズケーキ以外はたべなかったのにね」と言うだけで、感情の含みはなかった。いちごのショートケーキを手に、わたしの方が狼狽する。
 逆にわたしが変化を問うと、困った顔をして、
「そうね、ものが減って部屋がスッキリしたみたい」
 とだけ答えた。以前のわたしが不自然に必須家財を始末した意図に気が付き、わたしは黙る。盗み見た女の横顔には、しかし悲壮な感情は見い出せない。
 少しだけ話足りないタイミングで、女が席を立った。
 深夜と呼んでもおかしくない時刻、当然駅まで送っていくつもりだったが断られた。さり気なく土場を占領し、わたしに靴も履かせない。儚げに見えて、意思の強い女なのだろう。
 帰り際に、女はわたしも忘れてみようかな、と呟いた。
「それで機会があったら、また知り合いになりましょう」
 女はにこやかに宣言し、視線でわたしを黙らせて、振り向きもせず帰っていった。開けたドアを後ろ手に閉じる。顔を、半分だけ振り向いて。
 マンションの廊下に、軽く密やかな靴音が反響する。遠ざかり聞こえなくなっても、わたしは鍵をかけることができない。ドアチェーンの鎖、金具を繋ぐビスの十字頭が、その言葉を厳かに待っている。
 喉の奥で踊る声は、飲み下して口には出さない。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。