紫色の傷口が
多少過激な表現があります。
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ハーピーが一羽ベランダにやってきて、あの人の死を知った。
人面鳥であるハーピーは、幼鳥時には顔がない。成長すると顔だけ擬態させるのだが、これはなぜか、決まって死者の物を模すのだと言われている。
だから、あの人の顔を持つハーピーがここにいるということは、つまり、そういうことなのだろう。
中世ではハーピーは、人を殺して顔を盗むと信じられており、縁起の悪い鳥だと言われていたという。現代ではカラスと同様、都会のありふれた害獣のひとつだ。
それがベランダの手すりに止まって、部屋の中を覗き込んでいる。わたしは天気を見ようとカーテンを開いたところで、視線に射られて動けなくなる。
ハーピーをこんなに近くで見るのは初めてだ。純白の羽はつやつやと光り、短く鳴く声は音階豊かに耳に届く。借り物の顔は全て正しい位置に備わっているのに生気が感じられず、鳥と人が融合しているからだけではない、不自然さを印象づけた。
気が付くと、手に持ったマグカップの中で、コーヒーが冷めてしまっていた。
空はビル群の裾から、明るくなり始めている。朝食をとる余裕はない。わたしは通勤用靴の埃をさっと拭き、玄関を出ていく。
カーテンの隙間から、ハーピーが一声高く鳴いた。
その人はわたしの幼馴染だった。
けれど、わたしたちは友人ではなかった。幼稚園では仲が良かったと聞いているが、小学校に上がる頃には、ほとんど付き合いはなくなってしまっていた。あの人はクラスの中心にいて、わたしはいてもいなくてもいい子だった。
中学に上がるまでは、同じ音楽教室で習ってもいた。
同じ楽器ではなかったので同じクラスではなかったけれど、たまにすれ違うことはあった。でも、会釈さえ交わしたことはない。
わたしたちは同じ地区、同じ年に生まれただけの、全くの赤の他人だった。
ホームセンターで罠を買った。
「以前いらしたお客様はこちらを買われていかれたんですが…」
アルバイトの女の子が、大きなネズミ捕りのようなものを運んできた。鳥を獲るなら網だとばかり思っていたけれど、一概に決まっているわけではないらしい。この辺は少し行けば雑木林や畑が広がっているので、街中とはいえ結構害獣が出る。知り合いに農家がいるのだそうで、女の子はその辺の事情に詳しいのだそうだ。
「カラスですか、たくさんいます? あ、ハーピーも出るんですか。あれはちょっと怖いですよね。でも意外に、捕まってもカラスよりおとなしいんですよ」
おしゃべりな女の子はてきぱきと、しかし口を休めることなく商品をレジに運んだ。狩猟許可書等については、何も訊かれなかった。少し呆れてしまったけれど、もちろんこの方が自分にとっては都合がいいので、黙っていた。
「ハーピーなら、餌にオレンジをいれるといいですよ」
女の子は無邪気に微笑んで、レシートとおつりを差し出す。
二日目にして、罠はその役割を終えた。
あまりにもあっさりと捕まえることができたので、わたしはむしろ狼狽えた。正直に言えば、迷惑にすら思った。自分で仕掛けておいて、矛盾しているのは重々承知しているけれど。
捕まるはずがないと思って何の対処も考えていなかったわたしは、罠を前に途方に暮れる。仕事から帰った午後7時、いつからそこにいたのかわからないが、ハーピーは隅にうずくまって動かない。ベランダにはたくさんの羽が散らばっていた。
とりあえず、ベランダから部屋の中に罠ごと移動させる。大きな金属製の箱自体が重いので正確にはわからないが、ハーピーはとても軽かった。近づいても、攻撃的な様子は見られない。無表情に、こちらの様子を伺っている。
まずお風呂に入って、なにか食べて落ち着こう。
リビングを出る時、首だけ振り返ってその箱を見た。ハーピーはあの人の目で、わたしをじっと見つめている。手が反射的に、部屋の電気を消す。
眼光だけが青白く、暗闇に留まった。
この街は地方都市としては大きいけれど、行政は教育の充実に乗り気ではない。特に高校に関しては、学校をほとんど選べない。親元を離れて大学に通うまで、同じ学校に通った同級生は多かった。
高校時代。
わたしにとって苦いことばかりだったあの頃を、あまり思い出したいとは思わない。特に二年生の秋から学年が終わるまで、わたしはいじめを受けていた。
それまで仲良くしていた女の子たちが、ある日突然虐待者となる。たぶん、理由があったわけではないのだろう。カッターで口の中を切られたこともある。それは、単純にそういう遊びだったのだ。
学校という閉ざされた社会の中、残酷なほど明確な一線が画されてあって、全てのものが、わたしとは反対側に存在していた。クラスメイト全員がそれに参加していたわけではないけれど、助けたりかばったりしてくれる人もいなかった。
あの人も、その群衆のうちの一人だった。
深夜に長湯をしていけない理由は、こういうところだ。
ほとんど温かさの消えた湯舟の中で、わたしは嫌なことばかり思い出す。寒くてひもじいのに、わたしはあの人のいるリビングへ、戻ることがどうしてもできない。
リビングの真ん中に置かれた罠の中で、ハーピーはいつもじっとしている。
捕まえてから何日も過ぎたのに、水もオレンジも口に入れた形跡がない。たまに見ていないところでさえずる声が聞こえることがあっても、わたしの気配に気が付くと、すぐに口を閉じてしまうのだ。
餌を食べないことに心配する気持ちと、思い通りにならない腹立たしさが同時に湧いてきて、わたしはいっそ愉快だった。ハーピーを置いて仕事に行き、ハーピーの前で食事を取った。食材を買ってきて丁寧に調理した料理を、分けてやったりもした。ハーピーは全くの無表情で、じっと家の中を観察したり、与えられた料理を遠巻きに見たりしていたが、やっぱり一口も食べる気はないようだった。
一言鳴けば、出してやるつもりだった。
ハーピーがもし、見た目のように高い知能を持っていたのなら、その意図は明確だったはずだ。けれど、この生き物は身を固くしているばかりで、なんのコミュニケーションも取るつもりはないらしい。
時々、わたしは傍に屈みこんで、まじまじとその顔を観察した。ハーピーの「顔」は人間のそれよりもずいぶん小さい。成長すれば表情も現れてくるはずなので、このハーピーはまだ幼鳥なのかもしれない。ビー玉のような瞳だけが忙しなく動き、あの人の顔は彫刻のように動かない。
その目元は涼やかで、まっすぐ伸びる鼻梁を中心に、完璧なまでの左右対称を成している。特別どこが素晴らしいというわけではないが、バランスの良い顔だった。けれども、よくよく見れば、小さな粗を探せないわけではない。
一言でも鳴けば、逃がしてやれるのに。
わたしは檻にそっと手を触れる。金属が肌に冷たい。ハーピーが身体を震わせ、わたしは思わず身を竦ませた。
それは、いつもならそろそろ家を出ている、8時頃のことだった。
ようやく、ハーピーが蚊の鳴くような声でピュイ、と高く鳴いたのだ。空腹に耐えかねて、目玉焼きのにおいに釣られたのかもしれない。わたしは今まさに焼けたばかりの、バターが半分溶けたトーストをかじろうとしていたところで、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。不意打ちとはああいうことをいうのだろう。
鳴いたからには、約束を果たさなければならない。わたしはトーストを皿に戻し、注意深く罠を開いて、ハーピーを外に出してやった。
汚物だらけの牢獄を出られてなお、ハーピーは無表情だった。群れる鳥は弱みを見せないというけれど、ハーピーのそれは徹底している。何日もの断食で衰弱しているはずなのに、その身体はさらさらとした手触りで、汚れている様子は微塵もなかった。
あとはそのまま、窓から放ってやるだけでよかったのだ。
しかしわたしは、両手の中のそのか弱く柔らかなものを、手を離すことができなかった。あまりに軽くて頼りないことに納得がいかなかった。そして半ば無意識に、瞼の上に指を置いてあの人を包み込むと、骨が砕けて音を立てるまで、両腕に少しずつ圧力を加えていった。
気が付くと鳥は、口から泡を吹いて、動かなくなってしまっていた。首はねじれ、皮膚が少しよじれている。力の抜けたかぎ爪が、空中に揺れていた。
表の通りで、誰かが学校へ向かい、ごみの回収車が通り過ぎる音がしている。朝の雑踏は、この部屋から恐ろしく遠かった。
とりあえず仕事に電話をして、休みをもらう。それから汚れて重たい檻を、ベランダにでも出さなくては。その前に手を空けなければいけない。解体するなら、風呂場がいいだろう。
思い返せば自分でもおぞましく思える程の冷静さで、わたしはハーピーがいた痕跡を、リビングから消し去り始める。
わたしが県外の大学に進学した後は、あの人を見かけることもなくなった。
奇妙なもので、物理的な距離が広がった後の方が、近況をよく聞くようになった。同郷の学生だと、案外どこかにつながりがあって、噂が聞こえたりするものなのだ。同級生が風俗嬢になったとか、野球部の誰それがひき逃げをして捕まったとか、そういう誰が聞いても興味を引くスキャンダラスな噂に混じって、地元の私立大学に進んだ、ということを知った。
その後、知り合いの経営する会社に就職したと聞いた。その職種に接点がないので会うことはないだろう、と思った。ただ、どこかで今あの人も仕事をしているのだな、と想像したのを覚えている。そして地元に帰って就職してからは、風の便りも途絶えてしまった。
大鍋の中で、あの人の顔がゆらゆらと漂っている。
うちにある鍋で一番大きく深いやつで、こんなもの必要ないと言ったのに、母が念のためにと買ってくれたものだった。一人暮らしのこと、日常に使う場面はほとんどないが、瓶の消毒や掃除のお湯を沸かすのに使えるし、便利かもしれないと見直した。
鍋のお湯はちょっと熱いお風呂くらいの温度で、手を入れて確かめると、青白い肌が柔らかさを保っている。火を通すというより、状態を保つようなイメージだ。
ハーピーを解体しようと試してみたが、素人には無理だった。羽をむしっても斑に残り、内臓も破れてうまく掻き出すことができない。胴体はぼろきれのような状態となってしまい、諦めて檻の中に放り込む結果となった。
残されたのは、あの人の顔だけだ。
これをなんとかしなければならない。ふと、少女がウサギを煮て皮を剥いだ、という話を思い出した。そして、それを実行に移すことにした。皮をなめしたことなんて一度もないけれど、やってやれないことはないだろう。
温度はどのくらいか、いつまで煮ればいいのか見当もつかず、ただ当てずっぽうに加熱し始めた。水は時間が経つごとに赤黒く、見ようによっては紫に近い色に染まっていき、灰汁が大量に浮いてきた。湯を捨て、何度かそれを繰り返すと水は透明さを保つようになったので、一度取り出してあの人の顔と、長い髪を丁寧に洗う。
その顔は、眠っているように穏やかだった。頬には張りがあって、若々しくさえある。意図せず触れた唇が、わたしの指先に甘やかな感触を残した。骨はもろく、簡単に刃が通ったので、首の切断面はきれいなものだった。それなりに火が入っているはずなのに、肉は赤い半透明のままで、角度によっては紫色に光っている。
それにしても、ひどい臭いだ。
汚泥と腐った植物と経血を混ぜ合わせたような、生々しい生き物の気配が、部屋中から強く感じられる。においはそれが何を食べ、どこで生活していたのか、そういう人生の道程を鮮やかに浮かび上がらせていた。
皮はまだ、硬く肉に張り付いている。冷たくなってしまう前に、再び火にかけた。温められた水の中、対流がその髪を静かに撫でている。
中学校最後の学園祭のことだ。
学内は開放され、クラスや部活の催しに賑わっていた。模擬店があちこちで開かれ、スピーカーからは絶えず、音楽だの連絡事項だのが聞こえていた。どこもかしこもすごい人込みだった。
そんな状況であっても、図書館は開いてなくてはいけないらしい。調べものをしたり、パソコンを使ったりする者がいるかもしれないからと、図書委員のわたしが一人、当番をさせられることになった。
何人かはこんな日に当番なんて、と同情してくれたが、実を言うとわたしは、留守番係になってほっとしていた。祭りは好きじゃない。ごった返す人波に揉まれるくらいなら、ひとりでゆっくり本を読んだり、返却された本を所定の棚に戻したりして過ごした方が、どれほどもましだった。
昼過ぎからなぜか、あの人も図書館にいた。
食後の読書に熱中していたので、いつからいたのかはわからない。そろそろ冬支度をしてもおかしくないのに妙に暑い日のことで、図書館の窓は全て開けっ放しになっていた。入り口からすぐ、机と机の間にとられた通路側。そこを風が通りやすいことを知ってか知らずか、あの人は一番涼しい席に座って、誰かを待っているようだった。
机の上に放置された図鑑らしき大判をぱらぱらと興味なさそうにめくり、あの人はそこで時間をつぶしていた。少し猫背になったその姿を、仕事をする間、盗むようにして見た。袖をまくった腕いっぱいに、ペンで落書きがしてあって、カラフルな線が白い肌を彩っている。
図書館には誰も来ない。三階の角部屋は、下界の喧騒や熱気から、隔離された空間だった。
しばらくして、誰かがあの人を迎えに来た。それが男だったのか女だったのかは、よく覚えていない。ただ、その子があの人に声をかけて、あの人が明らかにほっとして微笑む、一連の流れがまるで決められた台本に沿っているかのようになめらかだったので、わたしは内側が灰色の砂で埋まっていくような疎外感を覚えた。
あの人が立ち上がると、迎えに来た子がそれに気が付いて、
「あれ」
と、そのか細い首に触れた。あの人のうなじには紫色の擦れた線が、左右にすっと流れていた。どこでついたんだろう、とあの人が首を傾げたが、別段気にした様子でもなく、二人連れ添って出て行った。そしてその後は、誰も図書館に来ることはなかった。
わたしは残っている本を抱えて、本棚へ向かう通路を歩いた。そのイスは、立ち上がった形のまま直されずにそこにあった。
その疑問に答えた者はない。
だから、誰にも気が付かれたりしないよう、そのペンは筆箱の底に隠して二度と出さなかった。
わたしの部屋の中を、時間がゆっくりと溶けて流れていく。
ぼんやりと水面を眺めていると、自分が何をしているのか、今どこで何時なのか、忘れてしまいがちになる。かといって他にすることもなく、わたしはガスレンジの前に立ったまま、気が付くとまた青白い顔を見つめている。
あの頃に比べて、そのあごのラインが少し尖った印象を受けた。全体的に、もう少しふくよかだったように思う。首は本来ならば今よりもずっと長く、鎖骨へと滑らかに繋がっていたはずだった。
蒸発して温度が上がったせいだろうか、水中で長い髪が渦を巻いて蠢く。不思議な光景だった。中学校時代はずっとみつあみだったし、高校ではショートカットにしていたので、髪を下ろしている姿を見るのは初めてだ。
大きくあぶくが立って、彼女は顔の向きを変えた。わたしのぶしつけな視線に嫌気がさして、そっぽ向かれた気がした。湯気が立ち始めたので火を止め、水道の水を足す。温度に下がったのを確かめて、鍋に手を入れる。
その紫に触れた。
それはちょうど、あのペンでつけられた線と同じ場所にある。違うのは赤黒く濁った色をしていることと、首の周りをぐるりと一周している点だ。この印も、わたしが付けた。ふちに沿って、人差し指を這わせる。
途端、触った部分から、皮がぐずぐずと剥がれて落ちた。
わたしは驚き、動揺したままの乱暴さで、あの人を正面に向かせる。手が震えていたのがいけなかったのだろうか。その美しい顔は、触れた部分から崩壊を始め、皮膚の下のぶよぶよした脂肪を湯の中に溶かし始めた。
瞼が取れ、目が崩れ、たちまちのうちにあの人は、いくつかに分かれた肉片と、小さな穴がいくつか開いている、長細い頭蓋骨になり果てた。鍋の中には、いやらしい色をした脂肪の粒が、水面いっぱいに浮かんでいる。
ああ、これは獣の死体だったのだ。
それに気が付いた時の絶望は、胃の内容物と共に床に吐き出してしまったので、後遺症にはならなかった。わたしは饐えた臭いの汚物にまみれて、かろうじて笑う。
吐瀉物も鍋も檻も全部、明日のごみに出してしまうつもりだ。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。