6/26 憧れるけれどなりたくはない(なれない?)

 今日は、起きてからずっと、左側の肩から肩甲骨、首にかけてに違和感がある。どうやら、夜の寝ている間中、肩を内側に巻き込んでいたらしい。こういうとき、なるべく痛みを感じないように、肩を内側に巻き込むような姿勢をとっていた方がいいのか、それとも、縮こまっている筋肉をなるべく伸ばすべく、胸を開いた姿勢をとった方がいいのか、判断がつかず、困っている。とはいえ、どっちの姿勢をとっても結局つらくて、両方の姿勢をいったりきたりしながらごろごろとのたうちまわる一日を過ごしている。

 『遅刻の常習犯だけれども、なんだかんだで「まぁ、○○さんだから仕方ないか~」と許されちゃう人』と『飲み会で酔って記憶をなくす人』の話を立て続けに読んだ。『遅刻するけれど許される人』の話は、許されちゃってずるい、けれど、そうやって、みんなお互いいろんな場面で許し許され、甘え甘やかされているんだよね、というお話。『飲み会で酔って記憶をなくす人』の話は、そういう人がうらやましいし、そういう人たちの方が人生を楽しんでいるような気がする、けれど、自分にはできない、という話。……端的にまとめ過ぎたか。前者は『麦本三歩の好きなもの』(住野よる著)という小説の中の一遍で、後者はan・an今週号の『朝井リョウ×古市憲寿 紙のラジオ』の中での朝井リョウさんのエピソード。

 遅刻常習犯にも2種類いると思っていて、愛をもって「仕方ないな~」と受け入れられているパターンと、「あの人はダメだ」と完全に匙を投げられているパターン。もちろん、両方の間もあるけれど。愛と突き放し、何が違うんだ。普段の愛嬌か。

 酔って記憶を飛ばせる人は、まわりの人たちへの信頼が篤いんだな、と思う。……甘えている、とも言う? 「自分が潰れても、みんなが(特定の誰かが?)どうにかしてくれる」と思っているから記憶を飛ばすようなことができるんだろうな、と。それで実際、そこまでの人生はどうにかなってきたんだろう、まわりの人たちも「あ~、しゃーないな」とか言いながら面倒見てきたんだろうな、と。

 ……愛されるダメ人間?

 わたしは、昔は遅刻常習犯だったけれども最近はオンタイム派(5分前、とかではない)になったし、お酒はそもそも強くないから、最初からジンジャーエールを頼む派で。『遅刻して許される派』や『酔い潰れてまわりに助けられる派』に、憧れやら嫉妬やら(ちょっとは憤りも)感じるけれど。じゃあ、そっち側をやってみたらいいじゃん、と言われたら、別になりたくは、ない、ような。なれなさそうだし、やりたくもない、けれど、気になる。放っておけばいいのに、気になる、ジレンマ。

まわりの人に受け入れられる・愛される自信がない? から、自分にはできないと思っている、のかもしれない。だから、できる人が羨ましいのかも。とか、そういうことを考え出すと、自己肯定感の低さがどうだとか、少しばかり厄介な方向に考えが及んでしまう。

 今日は、左側の上半身をかばいながら、そんな考えたからってどうにもならないことをぐるぐると考えている。

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