大の負けヒロイン好きがエヴァ新劇場版を一気見した感想――最後の選択とそれぞれのヒロイン像について

マシュマロで度々圧をかけられたこともあり、これもいい機会だと思ってヱヴァンゲリヲン新劇場版を4本一気見した感想です。

今更見てることからもわかる通り、筆者は生まれてから「エヴァ」とは限りなく無縁に近い人生を歩んで来たため、シリーズに対する思い入れがあまりありません。
その意味で「私にとってのエヴァ」といった感想とはかなり縁遠いものとなります。
一応コミカライズ版は全巻読んでいるので、おおまかなストーリーや用語に関する知識は最低限ある、ぐらいの状態。
そんな視点からの感想なので、作品背景や文脈等、汲み取れていない部分はご容赦ください。

じゃあなんで感想を書いてるかというと、「ヒロインレース」という観点からです。
筆者は負けヒロインや当て馬という概念を愛しており、日々様々なジャンルの失恋シーンを摂取して生きています。
外から見ていた立場ではありますが、エヴァというシリーズは主にアスカ・レイという二大ヒロインを筆頭として、ヒロイン論争の活発な作品という印象があり、その行く末に興味を持っていました。
……という経緯もあって、いよいよ視聴した新劇場版。

最終的にシンジのパートナーとして選ばれたのは、新劇場版からの新キャラであり、ラストシーンまでほとんどシンジと接点のなかった真希波マリでした
そしてレイ・アスカ・カヲルといった周囲にいたキャラクターたちは、それぞれ別の組み合わせで仲睦まじく談笑しつつも、シンジとは交わらないという結末が描かれています。
まさに大どんでん返しと言っていい内容でしょう。
当然、この結末は大いに賛否両論を呼んだようです

日々ラブコメばかり追っている筆者としては、この結末は怒られて当然と思う一方で、その選択に納得感もありました。
それは、この作品のテーマが「卒業」にあるからです。
それゆえに、この作品のヒロインはマリであることには説得力があります。
以下、そんな話をつらつらと書いていきます。

「当て馬エンド」という形態について

当て馬エンドとは、作品の中で「当て馬」に該当するキャラクターと結ばれるタイプの結末を指します。
このタイプのエンディングは決して多数派ではないものの、いつの時代もジャンル問わず一定数存在します。
最近では「ちはやふる」がそれに近いエンディングでしたね。
参考:当て馬エンドとちはやふる
(当て馬エンドだよ、と語ること自体が致命的なネタバレに繋がるので例を挙げにくい)

これらの作品には共通したフローがあります。
それは、何かしらの形で主人公の追いかけていた「恋」を「卒業」するということです。
最初の恋に区切りをつけた次のステップとして、あるいは恋を乗り越えて再発見した新しい幸せの形を体現するように、一度は当て馬とされた相手との未来を選択するのです。

ラブコメに限らず創作物における恋愛はなんらかの意味で「普通ではない恋」を描くことが大半です。
当て馬や負けヒロインはそれに対して「普通の恋」を体現する立場として配置されます。
「あり得たかもしれない普通の幸せ」に後ろ髪をひかれつつも、自身の中の情熱に従って「普通ではない恋」をつかみ取る様に、カタルシスを覚えるのです。
そのような「普通ではないロマンティックな恋物語」は読者の胸をときめかせる一方で、この刹那的な恋は、必ずしも恒久的な幸せにつながるとは限りません。
当て馬エンドが描くのはそういった「情熱的な恋物語への憧れ」を乗り越えた「ありふれた幸せ」の価値なのです

では、「シン・ヱヴァンゲリヲン」は当て馬エンドに該当するのでしょうか?

「シンエヴァ」は当て馬エンドか

実はこの作品に関しては、さらに一歩乗り越えて特殊です。
というのも、マリに関しては一時たりとも「負けヒロイン」「当て馬」に相当するポジションにいたことすらない、完全なる部外者だからです
一応、空から降ってきてファーストコンタクトとかいう、どこぞの姫君のような出会いをしてはいるんですけどね。

このマリという少女は「ヒロインなるもの」に対するアンチテーゼとなります
シン・ヱヴァンゲリヲンという作品は、「エヴァからの卒業」をテーマとしていました。
それは、エヴァにまつわる様々な因縁や呪縛からの解放でもあり、「エヴァ」に居場所やアイデンティティを探し求めていた自分自身(ひいては視聴者たち? この辺のメタ部分はわからない)からの解放も意味します。
いうなれば、「エヴァという物語性」を否定することで、未来への架け橋とするのがこの作品の目的であるといえるでしょう。
なので、そこにおける「ヒロイン性」も同時に否定されなければならない。
シンジの掴み取った物語は、「エヴァにまつわる物語」の延長にあってはならないのです。

ここで重要なのはマリという少女が「何の接点もない」いわば「普通の恋」と呼べるかどうかすらもわからない存在であるということです。
もちろん、彼女が設定上複雑な立ち位置にいます。(このあたりも完全には理解できていない……というか明言はされておらず匂わせ程度?)
しかし、シンジにとって、あるいは「エヴァのない世界」にとって、そのことは重要ではありません。
その一方で彼女が「一般人ではない」ということには意味があります。
英雄でもあり罪人でもあるという、特殊過ぎる境遇であったシンジにとって「一般人と結ばれる」ということは、それ自体意味がある結末になります。
具体的にはサクラのことになるのですが、一般的な「当て馬エンド」を描くのならば、彼女と結ばれる未来もあったのかもしれません。

彼と接点があるわけではないし、一方で彼を特別視するほど普通の存在でもない。
この「メッセージ性のなさ」が一転して彼女の価値となっているのです。

マリはシンジの匂いを「いい匂い」として好む描写があります。
ここでいう「いい匂い」とは「異性として本能的にあり」ということを示しています。
逆に言えば、「本能的にあり」以上の理由がないということでもあります。
「全ての物語性から解放され、たまたま近くにいた生物学的に相性のいいおっぱいのでかい女と付き合った」
この何者でもない結末がシンジの掴み取った未来ということなのではないでしょうか。

ヒロインたちとの決別について

シン・ヱヴァンゲリヲンではそれぞれのヒロインたちとの決別も描かれていました。
それぞれのヒロインたちの「ヒロイン性」について、明確な決別が描かれています
悲恋フェチとしては、これらをもうちょっと湿度たっぷりに描いてほしかった気持ちもありますが、それが作品の根幹ではないので、まあ。

ある意味、一番メインヒロインに近い立ち位置にいたと思われる綾波レイ。
彼女の救出しようとして暴走を引き起こしたことが、サードインパクトのきっかけともなりました。
更には、そこまでしたにも関わらず、結局、彼女を救うことはできなかったという皮肉。
作品によって立ち位置が違いますが、こと新劇場版に限って言えば、守りたいと思ったのに守れなかった、死別系のヒロインに相当する立ち位置に見えます

死別系ヒロインからの「卒業」は、すなわち死を受け入れて乗り越えることにあります。
そのカギが、経緯こそ違えど「綾波」と同様に感情を獲得し、シンジをして「綾波」という名がふさわしいと言わしめた初期ロットです。
その初期ロットが目の前で爆散したこと。彼女はそれでも満足そうに微笑んでいたこと。
これが長らく直面することのできなかった「レイの喪失」を受け入れるきっかけになったのではないか、と感じています。

最後の会話からもそのことがうかがい知れます。
物語の中心であり、悲劇の中心でもあった彼女を「過去」として受け止めた。
そんなシンジを送り出す彼女の笑顔が印象的です。

そんな笑顔の決別をしたレイに対して、アスカはもう少しナーバス。
アスカは14年後の世界において、一貫してシンジを「バカガキ」として扱っています。
彼女はシンジに対して「子供を導く母親」であろうとしました。
それは、14年間停滞しなおも停滞を続けるシンジへの怒りでもあり、その間やみくもに戦い続けた自分の正当化でもあるのでしょう。
でも一方で、時間が必要として見守ろうとしたケンスケたちとの対比、周囲と馴染まず孤独にゲームに打ち込む姿、そして成長しない肉体……彼女もまた14年間停滞していた存在だったように思います。

結局、二人の子供の立ち位置はそれほどは変わっていなかった。
それでも、彼女は無理して背伸びをすることを選んだ。
彼に抱いていた想いを手放して、母親として彼を導くことを目指した。
これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶか。
とはいえ、結果として、自身の言葉ではシンジを立ち直らせることはできず、彼を再び立たせたのはレイの記憶と初期ロットだったというところに、なんともいえない報われなさを感じます。
徹底して、二人の望みはすれ違い続けました。

そのすれ違いを解消したのが最後の会話だったのでしょう。
二人はかつて作った弁当の味について語らいます。
普通の恋をすることはできたはずなのです。
ただ、アスカは母親になろうとしてその恋を手放した。
最後の瞬間にこの話題を出すこと自体が、彼女の降り切れない未練を示しているようにも思えます。
そして、「好きだった想い出」として二人の関係は解消されます。
やるせない後悔と未練が残る、ほろ苦い恋の幕引きでした。

カヲルも作品によって立ち位置の変わるキャラクターではありますが、新劇場版に関しては、シンジを救うために命を捧げる存在としての面が強調されています。

何度もループしてシンジを救おうとする描写が見られますが、このあたりの描写についての真相は正直あまりわかっていません。
しかし、献身的に「英雄」であり「元凶」でもあるシンジに対して、救済のある結末を目指して一貫して行動していたのは事実でしょう。
そんな彼は、「Q」で道半ばにして果てることとなりました。

「シン」のラストにて、カヲルの真意が語られます。
それを受けて、シンジが選択したのが「救済」を必要としない世界でした。
救いのあるハッピーエンドがあると信じて走り続ける、その行為そのものを乗り越え、自らの主人公性を卒業する道を選んだのです。
カヲルはその決意を笑顔で受け止めます。
これもまた、ひとつの「卒業」の形であると言えるでしょう。

最後に、「一般人」である鈴原サクラについて。
彼女は「英雄」としての碇シンジと「元凶」としての碇シンジ、ある意味「物語の中心人物」としてのシンジに期待をかけていた周辺人物の代表であるとも言えるでしょう。
そんな崇拝と憎悪が混ざり合い、結果として彼に対してきつく当たっていきます。
ただ憎いだけでは、わざわざ言葉をぶつける必要などないのです。

「敬愛」も「憎悪」も人に対して抱くにはあまりにも大きすぎる感情。
そういった有り余る物語性からシンジは「降りる」ことを宣言するのです。
負けヒロインには「主人公の決断のアンチテーゼ」「主人公の選択の背中を押す」という役割があるのですが、ある意味ではそれを最も果たしていたのは彼女ともいえるかもしれません。
発砲までしちゃってるのが大変可愛らしいですね。

まとめ

というわけで、エヴァという物語の「当て馬エンド」としてのマリエンド、そして、その過程でシンジが「卒業」していったそれぞれの「ヒロイン像」に対しての感想でした。

エヴァの感想なのに親子関係について語らない異常な感想になってしまったけど、そのあたりはもう色んな人が語りつくしているだろうし、もう公開から2年経っている作品なので、こういう視点でしか物事を見られない人間の感想があってもよかろうということで、なにとぞ。

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