当て馬エンドと『ちはやふる』

こんにちは。

本当は先週のうちに投稿したかったのですが、ちょっとコロナに感染してそれどころではなかったので遅くなりました。

先日、ようやく単行本で『ちはやふる』の最終50巻を読了したので、その感想記事となります。

さて、この最終回、極めて強烈な賛否両論を起こしていますね。
理由は明白で、最終話で突如起こったどんでん返しによるものです。

長い5番勝負を経て、遂に宿命のライバルを倒し新名人と新クイーンの座についた綿谷新と綾瀬千早。
途中挫折したり紆余曲折を経つつも、その二人と同じところに立つことを誓う真島太一。
三人は固く抱き合って、それぞれの道へと新たな一歩を踏み出す――。
という流れからの千早から太一への告白、遠距離恋愛スタート。完。
実際、自分も読んでかなり面食らったのは事実ですし、賛否両論はしゃーないかなと思います

さて、このようなタイプのエンディングは俗に"当て馬エンド"と呼ばれます。
”当て馬”と呼ばれる属性の二番手男子が最後の最後で逆転勝利を収めるパターンの作品のことですね。
「いつも当て馬ばかり好きになる」という困った性癖の人にも優しい。

このタイプのエンディングは、決してメジャーではないものの少女漫画作品においてはしばしば見られます。
著名なところですと『隣のあたし(南波あつこ)』や『ひるなかの流星(やまもり三香)』などでしょうか。
(当て馬エンドという表現自体が致命的なネタバレなので、意図せず踏んでしまった人はごめんなさい)

いずれも、ラスト直前で主人公の気持ちが変化し、当て馬と思われていた男子と結ばれる作品です。
『ちはやふる』もこの当て馬エンドの一種であると言えるでしょう。
物語の最終版、基本的に千早と共に戦っていたのは新であり、太一はその二人の戦いを見守る立場にありました。
運命力でいえば、同じ景色を見ている新と千早が最も近いはずと、誰もが思っていました。

当て馬エンドとは必ずしも賛否を巻き起こすわけではありません。
好意的に語られる当て馬エンドも多く存在します。

では、なぜ『ちはやふる』の場合はここまでの賛否を巻き起こしたのか?
当て馬エンドは、そして『ちはやふる』はどんなゴールを目指しているものなのか?

そんな観点から、この作品について紐解いていきたいと思います。


当て馬とは何か

当て馬エンドというのは不思議な概念です。
だって、そもそも結ばれている時点で当て馬じゃないですからね
では、なぜこのような表現が存在するのか。

理由はシンプルで、多くの読者が潜在的に"こいつは当て馬だ"と感じる要素があるからで、それを裏切るからこその当て馬エンドです。
三角関係が発生した時、物語の最後までどちらと結ばれるかは便宜上はわからないですが、それでも暗黙に「こっちだろうな」と多くの読者は直感します。
このような要素のことを筆者は運命力と呼んでいます。
運命力がより少ないほうが当て馬になるわけですね。

では、何が運命力を決めるのか。

創作物における恋愛では、多くの場合何らかの意味で"普通ではない恋愛"を描きます。
そりゃあ、現実や打算と折衷した現実的な恋愛なんて、わざわざ物語の中では見たくないわけで。
身分の違いや周囲の反対、過去のトラウマなど壁を乗り越え、なお惹かれ合う運命的な恋に夢を見せるのが恋物語の役割ともいえます。
そんな困難な恋愛に挑む主人公を駆動する力が運命力なのです。

そうなると、当て馬に求められる役割はそのアンチテーゼ、つまりは普通の恋愛です
世間一般的には「こちらとくっついた方が幸せでは?」と思わせてしまう、そんな当たり前の幸せを提供してくれるのが当て馬男子です。
主人公にとって身近な存在である幼馴染や明らかに主人公を幸せにしてくれそうなハイスペ男主人公の悩みに献身的に寄り添ってくれる優男が当て馬になりやすいのはこういった要因ですね。

そんな「ありふれた幸せ」への誘惑が甘美であればあるほど、そんな幸せを蹴ってでも運命的な恋に走る主人公の決断が強調されるのです
なので、極上の恋愛物語に極上の当て馬男子は付き物といってもいいでしょう。
当て馬男子は、物語が主題としているテーマとは別軸の幸せの理想形を提供してくれます。
たとえその想いが報われなくても献身的に尽くすその姿は本当に魅力的です。
そんな二番手男子しか愛せない呪いを抱えている人は結構多いんじゃないでしょうか。

ま……こっちはこっちでフィクションなんですけど。

当て馬エンドが目指すもの

では、そんな魅力的な当て馬が逆転勝利を収める当て馬エンドとは何なのか?
ここまで来ると答えはシンプルです。

ドラマチックで運命的な恋よりも、ありふれた身近な幸せを選ぶ作品が当て馬エンドと呼ばれます。

これはある種のニヒリズムとも言えるかもしれません。
身を焦がすような運命的な恋というのは、一種の憧れに過ぎない。
現実的に自分を幸せにしてくれるのは、激しく燃えるような恋ではなく、ずっと側にある温かな愛ではないか。
そんな問いかけを発するのが当て馬エンドです。

一般に初恋は上手くいかないとされているように、盲目的で情熱的な恋というのは、それゆえに地に足のつかない夢のようなものです。
そんな非日常的な恋の失敗を踏まえて、地に足の着いた確かな幸せを探していくのが現実における恋愛の着地点であるとも言えます。
でも、だからこそ、人は現実では叶えられないような運命的な恋物語に夢を見るとも言えるでしょう。
それを可能にするフィクションならではの魔法が運命力です

(余談ですが、最近はそんな地に足の着いた幸せをテーマにした作品も人気を集めていますね。いわゆる両片想いや両想いを見守る型のラブコメはそんな恋に軸足をおいているものも結構あります)

じゃあ身を焦がすような情熱的な憧れは悪者かというとそういうわけではない
運命的な恋は確かにうまくはいかないかもしれないけれど、それでも多くのものを与えてくれます。
自分の中に芽生えた憧れを解体し"卒業"することで、自分にとって本当に大切なものが照らし出されるのです。
そんな夢から醒める過程までを丁寧に描くのが当て馬エンドであるとも言えます。

なので、当て馬エンドとされる作品は、必然的に当初追いかけてきた恋を何らかの形で"卒業"するプロセスが絶対に挟まります
実際、上に挙げた作品はいずれも「最初に追いかけた恋」に別れを告げて、自分の気持ちを決算することできちんと"卒業"しています。

では、ちはやふるはどうだったのでしょうか?

ちはやふるは当て馬エンドなのか?

というわけで、長い前座を終えてようやく『ちはやふる』の話です。

『ちはやふる』は恋愛が主軸の作品ではなく、競技かるたを通じた青春と人生選択が主軸の作品であり、その恋愛模様は人生をかけて追う"夢"と強くリンクしています

結論から言ってしまえば、『ちはやふる』も立派な当て馬エンドの作品であり、千早は当初胸に抱いた憧れを"卒業"することで、最後の選択に至っていると言えるでしょう

ですが、その答えを出しているタイミングは思ったよりもずっと早いです。
その過程が極めて長くじっくりと描かれていることがかえってこの作品の解釈を難しくしているように思います。

まず、千早がかるたを始めたのは、自分だけの夢を見つけるためでした。
「お姉ちゃんが日本一になること」という夢を持っていた千早に対し、当時小六だった新は「自分のことでないと夢にしたらいかん」と諭します。
その言葉を受けた千早は自分だけの夢を追い求め、かるたの世界に身を投じていくことになるのです。

それは姉のような剥き出しの才能の世界に飛び込みたかったという願望かもしれません。
新が「千早にはかるたの才能がある」と太鼓判を押したことも、彼女の決断を後押ししました。
ヒョロ君が千早を評して言った「強くて孤独なやつを放っておけない」はある意味では正しくて、彼女は姉や新、そして若宮詩暢のような孤独の世界に住む存在に憧れを抱いていたともいえるでしょう。
千早はかるたの道を究めるための修業を中学の三年間黙々と行ってきました。

ここで重要なのが「世界一になる」というのは新の夢であること。
千早は世界一という自分だけの夢を持つ綿谷新という少年に"憧れ"を抱きました。
特に高校に入るまでの三年間、千早がかるたの道を上り詰める背景には、常に綿谷新の存在がありました。
実際、千早は新を神様のように思っていたことを、福井に押しかけた時に述べています。
そして、そのような憧れが17巻で語ったような「一生かるたを好きで、新を好き」という感情として語られていきます

そんな千早の考え方に変化をもたらしたのが瑞沢高校かるた部の存在です。
初心者と経験者がごちゃまぜとなった集団が、一丸となって一度きりの勝利のために限られた青春を燃やし尽くす。
それは個人競技としてのかるたとは全く異なる世界でした。
高校かるたの大会には個人戦の部もありましたが、それ以上に部として挑むチームかるたの世界に千早はより深く魅せられていきます
一方で新は当初チームかるたを不要なものとみなしており、それは新の描いた憧れとは全く違うゴールを目指し始めたことを意味します。

一方で、そんな瑞沢高校かるた部を象徴する存在が真島太一です。
高校で再会した幼馴染で、かるた部の創設からずっと一緒にいて走ってきた太一。
彼は千早と新に比べれば、かるたの才能では劣っていました。さらに言えば運もない。
それでも、ひたむきにかるたに取り組み、学業と両立させながらも部長の名に恥じない実力を磨いていきます。
そして、その存在感は単なる個人としての強さにとどまらず主将としてかるた部全体の強さを牽引していきます
その想いの正体こそ気付いていませんでしたが、太一の在り方はまさに千早を虜にしたかるた部の精神を最も体現した存在でした。

高校2年生の1年間を通じて、千早の想いの遷移が描かれていたように思います。
その集大成となるのが修学旅行。
教師になりたいという新しくできた目標のために、クイーン戦予選を蹴って修学旅行を選んだことが、その決定打だったと言えます。

千早が「世界王者になりたい」よりも先に「教師になりたい」という夢を抱いた時点で、彼女の中では九割結論が出ていたのではないでしょうか。

綾瀬千早の"卒業"とは

「教師になって競技かるた部の顧問になる」という新しい夢を見つけ出した千早。
ですが、かつて追い求めた"夢"はそのまま胸の中に燻ぶっていました。

千早の内面に芽生えた二つの情熱。
世界一という孤独を目指すことと、多種多様な背景や才能の入り混じる部活動という存在は矛盾します。
この矛盾の板挟みとなったのが他でもない太一です。

太一は千早や新のようなかるたの才も、全てを投げうつかるた愛も持っていません。
先生の言葉もあり、決死の努力で食らいつこうとはしていました。
しかし、それでも二人との間に感じた壁を超えることはできず、消え入るような告白と共に、かるた部を去っていきます。

鈍感な千早が太一の告白に大きくショックを受けていたのは、この矛盾を突きつけられたからともいえるでしょう
頂点を目指すという純粋な衝動が、太一を追い込み、大好きなかるた部を破壊してしまった。
この矛盾が彼女を追い込み、一度は自身もかるた部を休部し、勉強に打ち込みます。
これもまた、心の底では教師という結論を出していた表れかもしれません。

ですが、そんな逃げるような結論では納得することはできません。
一度抱いた"憧れ"にはきちんと決着をつけなければ次には進めない。
太一を迎え、自分の信じた進路に進むためには、もう片方の情熱にけりをつける必要があったのです。
まさに受験勉強との両立のように、二つの夢を両立させる必要がありました。

"憧れ"から"卒業"するために、千早はクイーンを目指します。
太一が帰ってくるまでにクイーンを目指し水沢を強豪校にするという千早の誓い。
それは自分のかつての夢に区切りをつけ、新しい目標を形にすることでもありました。

その決意表明ともいえるのが新の告白に対する返事です。
新への憧れと共に始まった世界一強くなるという夢を走り切ることで、千早は自分の恋と青春を完結させようとしたのです。

そして、クイーン戦全体を通じて、綾瀬千早が追いかけてきた夢からの卒業が丁寧に描かれます

立ちはだかる現クイーン若宮詩暢は「かるたの世界でしか生きていけない」孤高の存在。
まさにかつての千早が憧れた理想の姿そのものであるとも言えます。
しかし、千早はかつて新が才能を見出したかるただけではなく、かるた部のみんなと、そして太一と培ってきた経験を最大の武器としました
その武器に気付いたことが、クイーン戦の逆転の狼煙となりました。

かつて、一個人綾瀬千早ではなく瑞沢高校キャプテンとして新を倒していることからもわかるように、千早の夢の変化は最大の武器すらも変えていました。
その変化を認め、血肉として受け入れていく過程こそがクイーン戦であったとも言えます

そうして千早は見事、若宮詩暢を倒しクイーンの座に就きました。
それも絶対の孤独な存在ではなく、想いを背負い共に立つ新しい千早の流儀で頂点に立ちます。
これもまた、最初の憧れが形を変え、新しい夢の姿として収まった結果だと言えるでしょう。

彼女が真の意味で夢を卒業するために必要な最後のピース、それが「この人に認められなければいけない人」綾瀬千歳に認めてもらうことでした
姉に自身の成長を認めてもらえた時、千早は初めて自分の追いかけてきた"憧れ"に区切りをつけることができたのです。

そして、自分の中にあった"憧れ"に決着をつけ、自分だけの夢を見つけ出した千早は、ようやくいつもの部室で太一を迎えることができたのです

とはいえ、それはそれとして

長々と述べてきたように、『ちはやふる』という作品はかつて見た借り物の夢を"卒業"して自分だけの夢を見つけ出す物語だという話をしてきました。

とはいえ、これらは全て「後からならば何とでもいえる」の典型でもありまして……。

「当て馬エンド」という文脈があったから自分なりに千早の軌跡に整理をつけることはできたんですが、やっぱり最後の突拍子のなさは否めない気もします

まず、千早側のコミュニケーションが圧倒的に少ない。
当て馬エンドで、主人公が初恋から受け取ってきた感謝を語るのって、言葉にすることで卒業する意味もあるんですけど、何よりも相手にもそのことを受け止めてもらう必要があるからなんですよ

なので、まずちゃんと新にちゃんと返事をするべきなんです
クイーン戦で千早なりの区切りを迎えたのは事実だと思うんですが、ちゃんとその事実を周囲に伝えないと、ただ自己満足して終わってしまう。
あくまで当て馬エンドはどんでん返しである以上、ちゃんと筋を通すところまで描いてほしいなと思いました

さらに重要なこと。
実はこの作品、男たちのスタンスが途中で180度変わってるんですよね

太一は名人との出会いを通じて自分だけの武器を見つけ出し、千早と新と同じ高みに立つことを宣言します
一方、新は新で自らの流儀を変えて、かるた部を作って団体戦を行い、千早と道を交えようとしています
なので、最終話の時点で真っすぐ進んでいくと、実は最後に道を交えるのは新の方だという

このすれ違いを解消していないんです。
千早は自分の信じた道を突き進んで、告白後のあれこれは無視して、2年生ラストの太一の告白に返事しているんですよね
その後の一年間にあった二人の変化は全く千早の決断に全く影響していないのです。
完全に千早が一人で突っ走って、その間男二人が独り相撲やってた感じになってます

てか、太一側もなんですぐにオーケーしてるんでしょうね。
なんのために全てを捨てて京都に行ったのか。
一回逃げて「今度はお前が追いかけてこい」というぐらいの気概を見せてほしいなと思いました。
この居心地の悪さもまた、最終回の賛否両論に一役買っているように思えます。

結局のところ、千早の告白からゴールインまでを何ひとつ描いていないのが全ての原因という気もします。
確かにこの作品は当て馬エンドであり、"憧れ"の変化と卒業を取り扱った作品です。
当て馬エンドというのは自分の信念を大きく変えるのが主題で、その”変化”をどう魅せるのか、そこのプロセスこそが一番の見せどころともいえます。

クイーン戦まで丹念にその準備を整えておきながら、肝心の見せ場がなくあっさり終わってしまったのが、当て馬エンドとして消化不良に感じる原因かもしれませんね。

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