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休むということを考えてみた

実は、私はゴールデンウィークに休んだことがない。

正確にいえば中学生以降の話だ。

中学と高校は野球部だったので部活ざんまい。大学はキリスト教会に入り浸っていたので、イベントざんまい。正社員として働いていた時も、同じく祝日や休日は教会のイベントざんまい。フリーランスの牧仕となってからは休む日は特にない。

いや、一回だけ休んだゴールデンウィークがあった。

一回だけ休んだのは、心身共に病んでしまった時だ。教会で働いている時は、ものすごく疲労がたまっていたので、いつも休みたいと思っていた。この時に体を壊して、休みを余儀なくされた。

それ以来、ストレスがものすごくたまる環境を避けるようにしている。その上でいっぱい働ける環境を選ぶようにした結果が今のフリーランス牧仕だ。

今も、
「休みはあるんですか?」
と、たまに聞かれる。

休むことはほとんどないが、日常の中で余白的な何かは持っている。毎日、朝は静かに聖書を読むことで心を満たしている。夜は寝る前に、漫画アプリを駆使して、漫画に没頭する時間を持つのが趣味の一つだ。

そもそも休むという考え方がない。

休むというのは、おそらく何もせずに過ごすことなのだと思う。もしくは、仕事を忘れてプライベートを満喫すること。

休むことの目的は、疲労がたまった心と体を回復させることだと思う。横になって休んだり、リラックスをすることで、ある程度は回復する。夜寝ることがそれにあたるので、それで十分だと思っている。

でも、このような休養はある程度しか回復しないのでは、とも思っている。むしろ、アクティブに遊んだり、運動することでやる気も回復してくる。

「人と会い続けて疲れませんか?」
と、聞かれる。

当たり前だが働けば疲労は感じる。人と向き合うことは集中力を使い、心も使うので、それなりに消耗する。一方で人と話すことでチャージされる感覚もある。

何もせずに休む日が欲しいと思ったことは記憶にある限り、ほとんどないのかもしれない。むしろ、いつも元気に活動できるにはどうしたらいいのかと考えている。

日々の生き方の目的は休むためではなく、いっぱい働くことだ。心と体の疲労が回復する積極的な休養を日々の中でしているのだと思う。

▼編集後記として
私は働くことが好きだ。楽しいとも思うし、充実している。聖書の創世記を読むと、神が人間を創造した後、最初に与えたことは土地を耕し守るようにという労働だ。天地創造の業を引き継ぐ栄誉あることとして労働は与えられた。労働は呪いではなく祝福なのだ。

2024年5月7日

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