(13)2章23節-28節【毎日が安息日】
(マルコによる福音書2章23節-28節)
23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」
「安息日についての論争」
安息日は神さまがユダヤ人に与えたもの。
しかし、あるユダヤ人たちはあまりにも厳格に律法を守るあまり、守らないものを非難するようになっていた。
(今も一部に厳格に律法を守っているユダヤ人がいる)
ユダヤ人はイエスの弟子たちがやっていることは罪だと言った。それは、安息日に労働をすることは律法に反することだというのだ。
旅人が麦の穂を食べるということ自体は律法にかなっていたので大丈夫でした。しかし、これを安息日にやることが律法に反すると主張するのだ。
そして、イエスが言った。
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。
目的と手段が逆になってしまっている。人が週に一度は労働から解放されて完全に休めるようにと与えられたのが安息日です。この安息日はエジプト時代の奴隷から解放された時に神さまが与えたものです。それがいつからか意味が変わってしまい守らないことが悪かのようになってしまった。
守るか守らないかを超えて、神さまの安息にあずかることの本質的な意味を知ることが大切だと思う。
神さまの安息は週7日毎日いつでもある。大好きなイエスさまとの関係がそれぞれの人生の中で深まることが何より大切なことの一つだと感じる。
イエス・キリストは習慣に縛られている信仰の姿を一つ一つ解き放っていった。そして、神さまを愛し信仰することはもっと自由であることを見せてくれた。
例えばよく言われていたことの一つに、
「教会に来れば神様に会えるよ」
そんなことはない。いつどこでも会える…笑
自分の考えや習慣で神さまという存在を制限してしまったものが宗教ではないだろうか。キリスト教も例外ではないと思う。
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