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(29)6章1節-6節【イエスは大工だからと思っている人へ】


(マルコによる福音書‬6章1節-6節)
1イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6そして、人々の不信仰に驚かれた。 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

‭‭■内容
イエスは故郷に帰り、会堂で教えていた。しかし、地元の人たちの反応はすこぶる悪く、病を癒すこともごくわずかしかしなかった。

地元の人たちはイエスをマリアの息子だからと決めつけて、本来のイエスの姿を見ることもせず理解しようともしなかった。これを不信仰な姿であルトイエスは言われた。

■ともみんの感想
改めて読んでて驚いた事がある。

そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった


と書いてある。
つまり、不信仰というのは神さまの力を制限してしまうのだ。

信じない力というのは思った以上にすごいことだ。

実際に、お前には出来ないよ!
と言われたら、自分であれば出来ないというかやりたくもなくなる。

わたしと違ってイエスがふてくされたということはないが、
信仰というのは文字通り「信じて仰ぎ見る」がなければならい。
うがった目で見ては奇跡は起きないのだ。


奇跡はイエスとの愛の関係の中でなされることであり、
イエスの深い憐みがあってなされることでもあると思う。

愛とは、互いに尊重し合うことではないだろうか。
年齢や関係性、人種、さまざまなものを超えて
互いが互いを尊重し受け入れ合うことだと思ってる。

故郷に帰ったイエスは地元の人から受け入れられなかった。
大工という職業であること、
また誰の子で家族が誰であるかも全て知られている。
そんな中でありのままのイエスを見ようとした人はほとんどいなかった。

職業であり家柄を見て判断されたのだ。

人によってイエスの理解が異なる。

その他のところでも、
イエスは奇跡を行う人だと思われたり、
ローマに敵対する人だと思われたり、
ユダヤ教に挑戦する人だと思われたり、、、

本来のイエスの姿を見ようとした人はどれくらいいたのだろうか。

そして、イエスは自分をどのように見られることを望んだのだろうか。

イエスは救い主として来られた
わたしはそのようにイエスさまと関係を持ちたいと思っている。

読んでくださったあなたにとって今日もステキな一日となりますように✨


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