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(23)4章26節-29節【教育とは本来の自分を生きるためのもの】
(マルコによる福音書4章26節-29節)
26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
種(=神の言葉)が蒔かれた後のお話。
蒔かれた種の成長には、人の手はいらないというのだ。それこそ勝手に成長する。種は、いつの間にか芽を出し、茎が育ち、穂がつけられ、豊かな実が結ばれる。
人の成長には誰かの助けが必要と思ってしまうのが自分も含めた多くの人の考えであると思う。
このように育ってほしいという親や周りの人たちの願いがあるのも事実。これはキリスト教会でもよくある考えだ。信仰はこうでなければならないと教えてしまうのだ。
本当に本当に大切なことを考えてみた。
それは、
神さまが願う通りの自分になることだ。
ある教育者がこのように言いました。
「教育とは本来の自分を生きるためのものだ」と。
神さまが私たちを造った。
私に対しての、創造主の願いや想いがあるはず。
フォーカスを合わせるべきところを間違えないようにしたい。自分に対しても、出会ってくれた他の人に対しても。
信仰は神さまが育んでくれるもの。
最後に。
収穫の時というのは全世界に福音のメッセージが届いた時、つまり終わりの時のこと。
福音の種を蒔くと言うことは私たちに任された役割だ。
その後のことは全て責任を持って神さまがしてくださる。
楽しみながら種を蒔く人生を過ごしたい。
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