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(28)5章35節-43節【自分の願いではなくイエスの願い】

(マルコによる福音書5章35節-43‬節)
 35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

■内容
前回は、イエスが会堂長に呼ばれて家に行く途中に、12年間も出血が止まらない女性に出会った話だった。

その間に会堂長の娘の容態が変わってしまった。
最後の望みであるイエスが来る前に娘が亡くなってしまった。

しかし、イエスは彼女のところに行き、「起きなさい」と語りかけた。

奇跡が起こった。

亡くなったと思っていた少女が起き上がった。

そして、イエスはこのことを誰にも話さないように言った。

■ともみんの感想
今回の話を読みながら感じたこと。
それは、「信仰を持って神さまに願うこと」の大切さだ。

会堂長ヤイロは、イエスが色んな病気ので苦しんでいる人を癒すの見たり聴いたりしていたはずだ。イエスであればきっと自分の娘も治してくれるだろうという一縷の希望を持ってヤイロはイエスを訪ねたはずだ。しかし、イエスが来る前に娘が亡くなったヤイロの心はどうだったのだろうか。もしかしたら出血の止まらない女性がイエスの足を止めなければとか頭をよぎったかもしれない。

あぁ、
わたしは自分で願った通りに神さまにやってほしいという思いがある。

物事が自分の思った通りにならない時に神さまは祈りを聞いてくれないなと感じたりもする。こんなことを考えながら、ある意味で自分は神さまを利用したくて願い求めるんだなあと気付かされた。

無限の愛をもつ神さまを信じているはずなのに、いつのまにか自分の思い通りになって欲しい。そんな都合がいい神さまにしてしまっていた。そんなことを気づかされた。

神さまが叶えたいと思う祈りってなんだろうか?

もう一度立ち止まってみる。神さまの心に想いを馳せる時間を持ちたい。自分の願いをひとまず置いて。

きっとそれこそが大好きなイエスさまを信頼することだと思う。神さまを信頼することが信仰なんだ!

絶望的な状況に直面したとしてもイエスさまを信頼して歩みたい。ヤイロのような状況になったらわからないが、それでも信じられる自分でありたい。

今日もステキな一日となりますように。


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