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火が消えて、神話が終わる。本たちが語り始める。

自己紹介がてら普段やってる本の紹介でも載せてみる。
山尾悠子 飛ぶ孔雀 文藝春秋
かつての私たちは文字と紙を手に入れて
本を作り智慧をつけた。
まるでそれに火をつけて
自らの歴史に文字通り火を灯すように。
驕れる人は何より本を畏れ、
正しい人は何よりも本を敬った。
もしいつか、このまま本が世界に絶望し
人間に絶望して自らを華氏451度に設定するなら
我々はどうすればいい。
耳を澄ませばいいのだよ。

人類の歴史が
劇的に変わった要因の1つに火の使用がある。
石器を手にしたのが第1の技術革命なら
火は第2の革命であり、
それはエネルギー革命の始まりであった。
また、火をおこして暖をとることができたから
アフリカ大陸から出て行けて
世界に人類は広がって行けたのだ。
このように、火は人類にとって
言語の使用と並ぶ最大の発明。
我々は言葉を使い、火を灯して
自らの神話を今日まで語り継ぎ書き記してきた。

世界に溢れ返る本は人間の付属であり
それ自体が自己を主張することはない。
なぜなら生みの親は常に人であり、
本は勝手に出来上がったりしないから
しかし、時々出会うことがある。
それ自体が生み出す人間を選び、書かせ、
作らせたような本。
例えばジェイムスジョイス のフィネガンズウェイク
(冒頭から意味が全くわからない)
トマスピンチョン 重力の虹
(重力なのにゲルマン神話まで出てくる幅が広いなんてもんじゃない話)
埴谷雄高  死霊
(自分が自分であるのが不快な人が主人公の形而上学的小説でかつ絶筆でラストがない)
など、もはや書いている作家でさえ
説明がつかないような超難解本がある。
本書はそこに入れてもいいのではないかと思うほど、
説明に窮する小説だ。

山尾悠子と言えば私はSFを思い出す。
彼女をひとことで言うと、SF幻想文学作家
評価は真っ二つで私はもちろん高く評価する側の人間だ。
寡作でも知られ、長編は
1980年の仮面物語 のみ(文庫化なし、入手は絶望的)で
全体でも両手で余るほどしか作品がない。
そして、そのどれもが超難解なのだ。
シュルレアリスムの絵画を澁澤龍彦を経由して
文字に起こしたような小説とでも言えばいいか
シュルレアリスム系の絵画って
ファーストインプレッションが強烈で
細部に緻密で計算されたヒントがあり、
全体的には寓話的だと思うんです。
私はそのヒントを見てもわからない。
彼女自身、絵画を見て書くことが多いというから、
捉え方は間違ってはいないらしいが
なるほど全くわからん本ばかりだ。
しかし、過去作作品集で
私の大好きな佐藤亜紀氏が彼女を絶賛している。
それがどれほどのことかは
わかる人にはわかっていただけると思う。

実に8年ぶり(2018年時点)の連作長編は、
火が燃えにくくなった世界から始まる。
神話は火を灯して描き語られてきた。
その神話が止まりそうになったなら
書き記された書物もまた生まれ続けることはなくなる。
その瞬間を待って、書き手を山尾氏に選び
彼らの価値観や物事の見方で書き上げさせたかのような物語。
私は、彼女は言わば現代の琵琶法師のようなもので、長い長い平家の物語が
琵琶法師の体を通して語られたように、
火が燃えなくなり、神話が止まりかけた世界が
8年かけて山尾さんと融合して語ったと言っても過言ではないと思っている。

読んで楽しくて、感激するような本ではない
と言い切る山尾氏。
聞いてみたくはないですか。
本が語る世界を、火が消えるその前に。
こちらはぜひ本好きさんにチャレンジしていただきたい。


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