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視野のフレームから、目盛と自意識を追い出してみる

ここ数年の自分の変化の中でも、特にうれしい変化っていうのがあって。
誰かを見て、「かっこいい」「美しい」って思えることが、増えました。
自然とそう思えるように、なりました。
見た目の話ではなくてね。

みんなはもともとできてたのかな。笑
わかりませんけど、わたしにとってはすごく大きな変化でした。

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人間って生きているうちに、不思議なことにいろんなふうに偏っていきます。本当にちっちゃい子どもだったころは、そんなことなかったのに。
かわいい子をみて「かわいいな」、優しい子を見て「優しいな」、それだけを感じられていた日々が、すごく遠く感じました。
大体の人はね、「自責的」か「他責的」かのどちらかの性質に偏っていきます。両方ってこともある。ニュートラルでいられなくて、極端に自責的だったり、極端に他責的だったり、その両方を行ったり来たりする。

誰かを見てね、すなおに「かっこいいなぁ」「美しいなぁ」って思えるって、すごいんですよね。
自然の風景に対してはすなおに「美しいな」って感動できても、対人間となるとどうしてもすなおになれない。
「かっこいいなぁ(それに比べてわたしは……)」
「美しいなぁ(でもあのひとと比べたら全然だな)」
こんなふうに、どうしてもカッコ書きがついてくる。

なんでなんでしょうね、本当に。笑
たぶんね、やっぱり強烈に、自意識を感じているからなんでしょう。何を見るにつけても自意識がにょきっとフレームインしてくるからなんでしょう。

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自分を責めたり、他人を責めたり。
何かを落としたり、何かを上げたり。

誰に強制されたわけでもないのに、わたしたちは「優劣」の世界に身を置きがちです。
かっこいいものを生み出した瞬間に、かっこよくないものを生み出しがちです。美しいものを生めば美しくないものを、かわいいものを生めばかわいくないものを。

でもね、そんなものは本当はない。
〇〇ではないもの、なんていうのは、虚像なんです。
相対的な指標って、びっくりするほど虚像です。

本当は、そこに自分の心を揺さぶったかっこいいものがあるだけ。
そこに美しいものがあるだけ。そこにかわいいものがあるだけ。

それでいいじゃないですか。
どうして自分を振り返る必要があるのかな。どうして「でも自分は」って思う必要があるのかな。逆に失礼じゃないですか。笑
その、美しいものにどっぷりつかって、美しさを堪能すればいいのにね。

すごく気持ちいい温泉に入って、「でもわたしってこんなに包容力もないし、肌にいい成分を分泌できないし」なんて思わない。「あ~~~~気持ちいいなぁ~~~~~~てんごく……しあわせ……」で終わる。そのあと食べるアイスなんて最高すぎて、「アイスという存在がこの世にあってよかった……開発した人天才、ありがとう……」で終わる。

それでいいんじゃないかな、人に対しても。
「あのひと、なんてかっこいいんだ……すてき……」
「あのひと、美しい……語彙が出家する……」
これでいいんだと思う。これってね、すごく幸せなこと。

世界っていうのは、自分を責めるためにあるのではなく、他人の粗を探すためにあるのでもなく、ただいろいろなことのすばらしさを堪能するためにあるんじゃないかと思う。
そしてその「すばらしさを堪能する」のに必要なことは、「優劣の世界から抜け出すこと」なんだと思います。

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自分が優でありたいとか、自分が劣に見えるとか、そういう世界で生きていると、本当にすばらしいものを素直に受け取ることができない。
相対的な目盛でいろいろなものを測っていると、不思議なことに目盛でしか物事が見えなくなる。

優れているとかいないとか、そんなことってどうでもいいの。
かっこいいものに感動して、美しいものに心打たれて、かわいいものを愛でて。それで終わりでいいの。

そんなことに、この数年で気付いたんです。わたしは。
もしかしてみんな、とっくのむかしに気付いていたんでしょうか。笑
だったら教えてほしかったけど、でもこれって心の底から本人が気づかないときっと意味のないことなのね。

***

ほんとうに、すばらしい人がたくさんいる。
見渡せば、すばらしいものとすばらしい人であふれてる。

わたしは感動してるんです。笑
でもうまく伝えられない。言葉って難しいね。
相対的な世界を見ている人は、ぜひ絶対的な世界を見てほしい。視野のフレームから「自意識」をちょっと追い出してみてほしい。

きっとこの感動、わかってもらえると思うから。



最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました! 意識低めなので、いただいたサポートは書籍代などにはならず、おいしいケーキや紅茶に消えると思います……(*´ω`*)♡