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追悼と登記

 大切な人が亡くなった。とても優しい人だった。生まれたときから、私のことを愛で包んでくれた。大好きな人だった。
 彼らが亡くなってから、家の前を通るのが辛くなった。涙が溢れて止まらなくなるようになってしまった。表札はもう違う人の名前に変わっている。建物も、かつての家主のことなど忘れ、今の家主に精一杯仕えているように見えた。彼らが居なくなっても、変わらずそこで誰かの暮らしが営まれていることに、なんともたまらない思いがした。

 彼らがその場所に生きていたこと、その痕跡を見つけるのは、もはや難しくなってしまったように感じる。祖父が毎年チューリップを植えていたベランダ、祖母とみかんを食べた茶の間、自分だけのお気に入りだった 陽の差し込む二階の倉庫。いまやそのどれもが他人のものになってしまった。
 荷物を片付けたあの日、掃除機を隅々までかけてさっぱりしたあの部屋。いまや全く知らない人が我が物顔で荷物を散らかしているのだろう。それを指弾する権利さえない。
 もはや彼らの痕跡を見つけることは不可能になったと、家の前に立った僕はそう思った。

登記というもの

 日本には登記という仕組みがある。主に不動産について、その権利者を明らかにする仕組みである。お役所には登記簿というのがあって、○○町○○番地の土地が誰のものであるか、これまでどういう取引がなされてきたか、そういった情報が記されている。
 あなたの大切な人も、自分の家について登記をしたのではないか。

 登記は誰でもみることができる。○○番地の登記を見せてください、とお役所に申請することで、登記情報を記した紙を得ることができる。オンラインでも対面でも申請できる。オンラインでは、法務省のサイト「登記ねっと」から申請できる。会員登録をして、知りたい登記を選んで500円払えば、2,3日で登記情報が送付されてくるだろう。

 そもそも登記とは、土地や建物の権利者を世間様に表示することが目的の制度であるから、誰でもどこでも好きな登記情報を請求する権利が認められている。登記情報を請求したことが、その土地や建物の権利者に伝わることはないから安心してほしい。(ただし悪用は厳禁である。)

あの人を忘れないということ

 大切な人と過ごしたあの日の思い出は、時間の経過とともに、どうしても薄れてしまうものだ。彼らが生きていたことさえ、もはや歴史書の話のように平板なものになってしまったように思う。あれは夢だったんじゃないかと疑ってしまうことさえある。

 でも、時間は一義的なものであり、彼らが生きていたことは、間違いなく間違いないのだ。その痕跡を書類の形でも得られることは、少しでも心を落ち着けてくれるかもしれない。彼らは我々が忘れない限り生きていると、そう思いながら生きていきたい。


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