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アレデライフ!(2)

4.わたしにはゆめがある(前回投稿分のつづき)

他人と話をしないぶん、書物と漫画は好きだ。
相手が生きてないから好きだ。

忌引があけて、中学校へ行ったその日に、私は
「ここで暮らすのはやめたい」
そう思った。


大丈夫かと声をかけてくれる生徒は、ひとりもいなかった。

言葉のかけかたを知らなかったのか。
そこまで親しくないから、言葉をかけなくてもいいと思ったのか。
私に、言葉をかけさせない何かがあったのか。

そこは知らないし、今の私がわざわざ自分のために考えること、でもない気がする。

どちらにしても、こういう人たちと一緒の教室におさめられているのはごめんだ、と思った。それぞれの都合で群れたり笑いあったりふざけあったりしているのをみて思った。

最初に、仲間としなかったのはこいつらだ。だったら私も迎合しない。
完全に、「やられたらやりかえせ」的な気分といってよかった。
にぎやかで騒がしいクラスの中で、父と母のいない毎日をずるずる消化する気にはならなかった。
もっと静かなところにいこう、そう思ったのだった。


でもそれなら、どこかいつかに、心の通じ合う者がいるとでもいうんだろうか。
それを求めながら生きればいいとでもいうんだろうか。
そんなことを信じろとでもいうんだろうか。

両親がいきなり二人とも死んで、私は半分ぱーになって半分やけになっていた。

だから、「希望のかけら」みたいなものが納得できるような心にはならなかった。

その前の年には、全然関係ないところで、事件被害者のメッセージを聞いたことがあった。
実の家族から、ものすごいひどいめにあった人の。

「いつか、素敵な人と出会えます。いつか、その人と素敵な時間がすごせます。だから、やけにならないで」

わたしはその言葉を思い出していた。
メッセージが心に響くかといったら、てんで響かない。むしろ反発感をもって思い出していた。

どんな反発だったかというと、たとえば、
「いや、やけになる前提を許してほしいっすね。 “そりゃーないわ” って目にあったら、どっかで、やけをやんなきゃ、心が暴れたり心が沈み切ったりって何かが、ずーっと未消化のまま、ずーっと病むでしょうが」

・・・などと。とにかく、いっしょうけんめいその人が絞り出した言葉に甘えて、つっかかっていた。

ああ、反発するってのは、ちょっとだけわかってくれたと思った相手に、行き所のない怒りを八つ当たりみたいにぶつけることなんだな。こじれた甘え行為なんだな。

八つ当たりも、やけも、とりあえずオッケー・・・・・・にしておかないと、私はぶっ壊れてしまうんだろう。

やけにならないで、というのは、たぶん勝手に補足すると、「やけになってもいいけど、二度と戻ってこれないところまでやけの結果が振り切れていかないで」みたいな話だろう。

かろうじて私が鎖骨からバイオフィードバックギアをえぐりだして捨てなかったのは、「ま、振り切れるのはよそう」と思いとどまったから、というのが大きい。あと、「これなくなったら非常に不便だな」って思ったというのが大きい。

この小さい埋め込み道具があるおかげで、虐待や犯罪や自殺のワーニング(警告)は、すぐ通報されるようになっていた。プライバシーがどうのこうの、という大人の議論は知らない。


一方で、心にしみた言葉もあったことはあった。
両親が死んでおばさんに引き取られた人の、ひとりごとみたいなつぶやきは、少しは心に触れたっけ。

「私ねえ、電話が苦手なのよ。
おとうさんもおかあさんも死んで、おばさんに引き取られていたんだけどさ。寮のある学校に入れられてたのね。ある日さびしくてしょうがなくなって、おばさんに電話かけたのよ。そしたらおばさん、 “なんだよ!” って」

私はそのとき思った。
ああ、義務で引き取った姪から、まさかに寂しさから思慕されているなんて思ってもみなくってさ。
つい、ビックリして突き放した言葉だしちゃうんだ。

大阪のおばさんも、静岡のおばさんも、ぜったいそう。

だったら、大阪のおばさんと静岡のおばさんが、いっぱいいっぱいのあさましい自分の姿にうろたえるようなことがないように、私が一人で暮らしてあげようじゃありませんか。そう思った。
わざわざ嫌な思いをしにいくことなんかないじゃない?

私はそのくらい、怒りとか理不尽とかの噴き出し口をさがしてる。
ひとりになりたい、というのは、無神経な相手にある日ぶちっと切れて、教室で椅子を振り上げそうだな、って思って、それを予防することでもあるんだ。
ひとりになりたい、というのは、大阪のおばさんも静岡のおばさんも、まさか人間ひとりふえるとタイヘンすぎるぐらい小っちゃい小っちゃいニンゲンだということを、日々の怒りの八つ当たりでつきつけて、仕返しをくらいそうだな、って思って、それを予防することでもあるんだ。

私はたぶん、ささくれだっていた。頭がぱーになって混乱していながら、みごとに判別していたことがひとつあった。自分にまっすぐ向いたメッセージははたきおとし、誰かが「自分についてはこうだった」という材料は取り込みに行った。父や母のかわりの「保護者」ができるのを防ごうとした。父と母とれいらと私が住んでいた家に誰かの手が及ぶ前に自分でそこから去った。

森鴎外の「阿部一族」みたいな、だれかが死んではじまった振り子の揺れが線をぶっちぎって振り飛んでいっちゃうような動きを、たぶん私はしている。
涙がでないのだもの、泣きっぱなしのれいらと違って。
私はきっと、泣き方がわからなくなってしまって、自分の周りに防火扉をがんがん、がんがん落としおろすような動きで、お父さんとお母さんが急にいなくなった衝撃をなぞっているのだろう。

そういうことにしておいて。

・・・考えすぎだって?
つべこべ言わずに、人を信じて教室に行けってか?
つべこべ言わずに、人を信じておばさんに引き取られろってか?

性善説性悪説ってことばは、どっか前提間違ってんじゃないの? と、私は感じている。
ストレスの上にストレス乗せられて、理不尽の上に理不尽乗せられて、教育と環境をつくりだす状況があらゆる組み合わせで襲ってきたら、組み合わせによって人は人を助けもする。組み合わせによって人は人を害しもする。人が静的環境に置かれつづけるわけがない。 そんなふうに私は思う。
ひとの性質はきっと、幅があって、環境や気質や気分やストレス度合いや匿名性、ばれなさ加減・・・などの変数で、善と悪をいったりきたりする。そして、自分にとって善であることが、他者に害を与えたりする。と、私は感じている・・・とくに父と母が死んだ日からのジェットコースター感が、私にそう思わせている。


アセチルコリン系の脳情報処理のいいとこは、ある程度つなげた結果を予想できるところ。
ドーパミン系の脳情報処理のいいとこは、刹那的に熱くなれるところ。

ああ、バスケの試合に負けて激しい悔し泣きして試合相手を非難しまくってる同じクラスの生徒を、冷ややかな目で見て、すっごい罵倒されて、よけい孤立したっけ。

情報処理系が別物質で動いてるから、ドン引きしただけなんだろうけどね。


5.2年1組のプリント係

お父さんとお母さんの思い出とかに嘆きの中心点を置いているのは、どうやらちょっと違った。
私じしんの、「もともとの抑圧がだいぶ強い前提」で、怒りとか悲しみとか不安とか恐怖とかを自分の中にさぐりあてた気になったらば、背骨にそってふうーーーーっと息を吐いてリリースする。どうやら、そちらのほうがより、グリーフケアとしては本当だった。

やがて景色のように、好奇心を撫でるように、まわりの人間の動きや声が自分に届くようになるまで。植物も動物も景色も、私をおびやかしたりはしない。植物も動物も景色も、私との利害関係が発生しないかぎりは、私を身構えさせたりはしない。


私は何がほしかったのだろうか。保護してくれるやさしい人か。自分と際限なくしゃべってくれる人か。


「こんばんわー」
と、遠くから声がした。なぜ、そんな遠くから。
「木川田―。いますかー」

わたしは固まった。頭が真っ白になった。
自動設定してあった対話AIが、「こんなときのとっさのひとこと」を表示した。
選択肢A : 「こっちだよ」と、フラットに返す。
選択肢B : びっくりした、と自分の反応を共有する。
選択肢C : 黙って気配を殺して、みつからないようにする。

選択肢がとっさに3パターン表示される、便利なAIサポート。

「ちょっと、ちょっと、あたりに個人名さけばないでよ。私いま、きちんと鍵のかかる家がないんだから」
わたしは、安全を脅かされた状況を共有することにした。
「ああ、・・・・・・ごめん」

誰?
顔はわかるけど、名字がでてこない同級生。
クラス委員長でもなく、担任でもなく、比較的仲のよかった人でもない。そういうのが全部来ないで、このほぼ無関係な人が役目を押し付けられてわざわざ出向いてきたのかと思うと、なんかかわいそうな気がした。

「あっ、プリント係」
私はとうとう、乏しい記憶からこの男子生徒の正体を当てた。

「そう、プリント係。だけど。俺の名前、言える?」
「ええと・・・・・・プリント係」

「ほらなー」プリント係は自分について「あーあ」という声を出した。


おやおやだ。孤独ちゃんと地味ーくん、といった組み合わせか。
「私は孤独ちゃんで、君は地味ーくん。みたいなところ?」
「うまいこというなあ、木川田」プリント係は心から感心したような声を出した。

「会話選択肢AIつけてるから、今」

「あ、それ俺も実装したいと思ってた。月額7200円もすんべ?」
「7200円を3か月つかって、なんの改善もなかったら打ち切りだね。3か月つかって、改善したらいったんお休みだね」
「うわあー、ずっと払わなくても2万円超えちゃうじゃんよ」
「君はいいよ、両親そろってて先生からも教われるしプリント係としてクラスでも生きてられるんだから。私はいつか怒りを八つ当たりさせて、無差別にみんなにBB弾浴びせそうだから、今は学校に行けない」
「そうか、2万円で環境を買うか俺のように無料の環境でうじうじしてるかの選択か」

私はぼそりと、しょーもない会話を次に進めた。
「プリント係なにしにきてくれたの」

「先生にたのまれて、プリント持ってきた」
「それ頼まれてるっていわない。いいようにパシらされてる、っていう」
「お前ほんとに会話達人級だな」
「会話じゃねーし。ただの毒舌だし」

おどろいた。
プリント係相手に、私は怒りを小出しに共有している。
ドーパミン系にはできても、アセチルコリン系にはできないであろう、「瞬時の会話」、とっさの一言を、いくつも、いくつも。

・・・ということは、やはり、対人関係は組み合わせの数バリエーションが発生する、ということなのか。つまりプリント係と私は、お互い無口すぎていままで接点がなかったが、相性自体はいいのだろう。

「俺自身も、俺の名字はたいして重要じゃない気分。だからプリント係と呼ばれてて落ち着く気がする」

「で、名前だれだっけ」

「森林(もりばやし)。森林(もりばやし)朗(あきら)」

「あー!」
忘れてた。私ははじめて名簿の名前を見たときのことを思い出した。
「名簿で見てた。しかも失礼を承知でいうと、書いたら欠け感の大きい名前じゃない? って思ったこと思い出した」
「欠け感ってなんだよ」
「森林太郎(もり りんたろう)のタが抜けた感じ」

おどろいたことにプリント係は一瞬絶句して、

「それな!」

と、激しく同意してきた。

なにかしら。こいつ、小説まわりにいたっけかしら。私はもっぱら読むほうで、しかも中学生の創作物なんててんで読まないから知らないけれど。

ふと思いついて、私はオプション画面をひらいてみた。「公開許可」されているプリント係の固有データと自分のデータのマッチング画面。つきあうかとか相性どうかとかで使うらしい画面だけど、今の私には、「ストレスなく話ができる相手かどうか」はみてみたほうがいい。

「うっわ」

話がはずむわけだ。と思えるようなマッチング度合いを、私はしかめっつらで、プリント係は驚愕の表情で、それぞれ見た。
「こんなんはじめてみた」とプリント係はかろうじて声に出した。
「私のふたごのきょうだいよりは差異が大きくてちょっと安心したわー」

そして私は了解した。
担任も、学級委員も、まだしも仲の良い同級生も来ないでプリント係がきたのは、誰かがこのマッチングチェックをしたからだろうと。

「ま、プリントは、ありがとう」
「お前どこに住んでんの」
「これからDIYモジュール取り寄せて住めるようにする」

「なんか手伝うことある?」
「なんで?」
「一人で困ってないかと思って。こんな廃屋」
「パシらされて来た人をさらにパシらせる趣味はない」
「うーん」プリント係はうなった。そして言った。「そうか。じゃ、今日は帰る」
去り際に、プリント係は言った。「手伝いがほしくなくても、なにか、面倒な作業があるときは、呼べ」
そういって去った。連絡先を交換してないことにも、私たち二人ともが気づかなかった。

一人になってほっとしたからか、私の目からはじわっと涙めいたものが出た。
なぜ私は泣くことをみっともないという分類してるんだろう、と、私は不思議に思いながら、涙ぐんでいた。
れいらみたいに泣きに泣けたら楽だろうな、と思いながら。


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!