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子の刻参上! 一.あけがらす(八)

「そうか」
狐は次郎吉の反省顔を特にどうこう言うでもなく、ただ、うなずいた。
「熊公に会うかえ」

次郎吉は、はっとした顔になった。「会わなきゃなんねぇ!」
次郎吉、こんどはうっかり抱えて運ばれないよう狐を両手で押しとどめて、息の続くかぎり自分の足で走った。へとへとになって、どこかにたどりついたころには息ができず、後悔しきり。


生垣のすぐ横に通用口があった。あぶった膏薬のにおいが小さな部屋にこもっていて、外まで匂ってくる。
中から「いてえよー、いてえー」と、のべつまくなし、うめいている野太い声。

次郎吉は、情けなくなるやらおかしいやら。

「よう、おい、熊、このばかやろう!」
からっと障子をあけはなちながら、ばかと言った。言ってはみたものの、腹の底がくすぐったくって、頬の筋肉がひくついてならない。笑いをかみ殺すそばから、ひっ、ひっ、と笑いが雨後のタケノコのようにぐいぐい、こみあげてくる。

「親分――――!会いたかったあ、死ぬかと思ったあ」
須走の熊、膏薬をあちこちにぺたぺた貼られながら、打ち身の傷のひどいのなんの。毛むくじゃらの太い短い足を丸太ン棒のように投げ出している。
「ばかやろう!俺とゆかりもねえくせに、名乗って出ちまったら、責め問いの挙句に死罪だろう!」本気で怒った声を出してみたものの、どうして熊公を見ていると、こんなに笑えてくるのかがわからない。

「おやぶーん、わらわねえでくだせぇようーーー」
熊は半泣き声で訴える。訴えながら、「いてて、いてえよー」とぼやく。次郎吉、こらえられない笑いで体をひくつかせながら、「わらってられるこっちゃねえのはおいらも承知だ、なんでお前のことになると、笑いがとまらねえのか、自分でもわからねえ!」と、かろうじてとぎれとぎれに話をしてやらねばならなかった。

「とにかく、おいらとお前はただの飲み友達だ! 自分から罪をかぶっていくような真似は、一切まかりならねえ!
親分子分も勝手に名乗るんじゃねえ! だいたいが、いつ、だれが、おめえを一の子分にしたよ!してもいねえことで墨ぃ入れられちまうぞ!」

熊はしょんぼりを通り越して身を縮めるのだが、えらの張ったいかついひげ面が神妙になろうとしてもちぢまりようがない。それを見ている次郎吉のほうは、笑いしかこみあげてこない。

熊公恐れ入りながら、かろうじて反論をこころみる。

「すまねえ、すまねえけれどあにぃは、泣く子も黙る鼠小僧さまだ。3年つかまってる若旦那を牢から出そうと思って、おいら、ねえ知恵しぼって考えたんだい。あにぃ、考えてもごらんよ、お上に名乗ってでるときにさ。あっしは須走の熊ってぇけちな野郎でござんす、鼠小僧次郎吉の一の飲み友達でござんして、」

もういけない、次郎吉は腹をかかえて笑った。その場に倒れこんで笑って涙が出た。

「ほらあ、それじゃあ若旦那は、つかまったきりじゃあござんせんかぁ!」

笑い死にの恐怖におびえながら、次郎吉は自分の体から出てくるこの得体のしれない笑いが、体の中に戻ってとどまってほしくはない、と思った。不用意にいかさまばくちから若旦那を助け、なおいくばくかをもってけと言ったのは自分なのだ。
若旦那は小春の昔のなじみ客から金をもらいうけました、と正直に話してしまえばよいものを、3年もお留め置きになりながら黙って耐えた。一晩留め置きの熊でさえ、この大けがに石を抱かされ膝が使えない。若旦那の体は、もっともっとぼろぼろだろう。
小春にもいらぬ苦労をさせ、小春の小さい弟はつんつるてんの着物で蜆売り。

それらのことを、どうしようもねえとぼやきながら深酒で寝てしまった自分にくらべて、この熊はどうだ。
若旦那のためにと、ただの飲み友達のためにと、ホイホイ死ににいってしまう……

「もうよしてくれ」次郎吉は小さい声で言った。「おいらのせいで、みんな、みんな、ふしあわせになっちまうじゃねえか」

「あにぃが好きだから、あにぃのためになりてえ!と、こう、熊は思うんでござんすよ」

こんどは膝にえたいのしれない軟膏をすりこまれて、「しみるぅー!いてえー!」と叫びつづける間に、熊はぺろっとそんなことを言った。


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!