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あなたのせいじゃない、話の噛み合わなさ。自由すぎる日本語をひもとく(1)

《しろてる的「生きる」のデザイン》シリーズでは、暮らしのなかで無意識に流していたものを、違った角度からながめてみたりします。「生き心地・居心地」のよさを増すヒントのように。

「暮らし」というと、モノや住まい、家族、他者に目が行きがち……
「自分たちが使っているコトバ」に目が行くことは、ほぼありません。いくつかの記事では、少しずつここにフォーカスしてみましょう。ふだん見えないものを「見える化」すると、豊かで面白い世界が広がっていたりします。


さて今日は、日本語の広い広い海のなかで、ご一緒に「主語のはなし」をひもといてみましょう。


学校や仕事場で。
「主語は?」という確認が詰問のようになって、言う側も言われる側も、不本意だなあ不愉快だなあ、と感じたことはありませんか。

「自分は話がヘタだ」「わかるように話さんかい」みたいな、劣等感や攻撃性を持たせたりするやっかいなやりとりですよね……そのあたりについて。


日本語には、主語がありません

~と国語の先生に教わった人は、たぶんいないですよね。
百歩譲って、「日本語はSV(主語 ー 述語)構文を持ちません。」
教わるのはこういう形がせいぜいだったりします。

実際、どうでしょう?会話文例をふたつ。

(文例1)「あれ取って」
(文例2)「そんな人だとは思わなかった」

こむずかしくなりますが、2つほど確かめてみますよ。

(確認1)発言者は、意識したうえで主語を省略しているか? →いいえ。
(確認2)無意識の主語が発し手と受け手の間で共有されているか?
→はい、と言って大丈夫でしょうか? ちょっと疑問です。
これを実際にすり合わせてみると、たとえば使われたシーンによっては
一方は「我々の共同作業・我々の共通認識」という前提でいて、他方は「一方が他方を使役する・発言者に同調すると角が立つので聞き流した」という前提を持っていた
……みたいな、
「主語」を定める以前の、前提のずれがようやく明るみに出たりもします。

主体・主格・主語という概念がそもそもないことに、我々全員が気がついてさえいなかったりするんですね。
古代中古文学研究では

「文が何を省略しているかをとことん補ってみると、そこには外国語において主語といわれる語句さえも省略されていたことが明るみに出た」

こういう研究の特徴さえ、暗黙裡にスルーされてたりします。だれもそういう古文の教わり方をしてないと思います。

そこも一足飛びになるので、「古典は難しい」という人と「古典が大好き」という人の双方が、互いの間に横たわる溝を説明できない二極化が起こったりします。

たとえば。
古事記だと
「既にかむあがりましき」
(=すでに〔陛下〕はおかくれになってしまっていて、復命は間に合わなかったのだった)」

枕草子だと
「春はあけぼの」
(=〔私〕が思いますに、春はなんと申しましても夜のあけぎわの空が、とてもようございます)

……全部、記されることなく文が成立している
こういう省略性の高さを「日本語は難しい」とまるめるのも日本語っぽさ。
そして「省略性の高さにより言外の情緒を生もうと意図する文」を名文と呼ぶ。

「をかし」「わろし」
「月がきれいですね」(夏目漱石)
「水が来た」(三島由紀夫)
……対象と周辺をあからさまにしないで暗黙裡に置くことにより、名文をなす。

すごいツールです。日本語。

逆に、特性を理解しないと、ビジネスや議論において「確認した気になっていた落とし穴」をのこしやすい傾向にあるとも言えます。


古代日本語には主語がなかったのに、学校で「主語」という輸入概念を習ってしまったとたん、おおかたの人が「主語がある言語だ」という思い込みに支配される。そんな感じで誤りの混入が見過ごされやすい言語です。参りますね。


もういちど、こんどはいくぶん正確に述べますと……
日本語には本来、主語がありません。主語は後世、輸入された概念です。言語に定着しきっていません。

もしも、「主語を含んで言語体系が成立している」という誤認をしてしまうと……

そこに固定した構えを生みます。代表的な構えが
・私は話がへたなので、頭が悪い
・私は主語を省略するくせがあるので、きちんと話さなければならない
・この文章は主語を省略しすぎていて読みづらい

主語があると誤認した人は、「人や自分を責めていい」と思ってしまいます。
・話がわからない=わかるように話さない人が悪い
その場の全員が「日本語には主語がある」と思い込んでいると、「主語という概念のなかった源流日本語を駆使している人」が責められる。駆使している本人が自分を責めていたりする。こうしたおかしなことが起こります。

真の姿は「母国語の特性または不備」です。
ことばの特性なんだよね。という理解がされていないと、人や自分を大切にしない現実を作っていたりします。


「日本語には主語がない、というお説もあるんですってよ。」
という認識を入れると、この不快感が一挙に解消されるわけですね。

・私は日本語を「省略性の高さ、主語という概念を持たない特性」という古代語以来の由緒正しいありかたで使っていたらしく、頭が悪いというのとは違っていた
・私は日本語という「外国語では主語にあたる語句さえ省略できる言語」を使っているので、あえてこの場では主語を補おう。忘れてたら後で補おう。

「主語がないというお説もあるんですってよ」という認識を入れると、人を責めません。
・話がわからない=あえて主語を補うと、双方の認識や前提はどうなのだろうか。確認したいんだけどいいですか
・「わかるように話せ」とか、「主語は何だ」とか、不当な圧をかけて、すいませんでした

このように、様子がすこし変わってきます。


有料部分ではもう少しマニアックに、
日本語の「くっつきことば」としての自由度の高さがどういうものなのか?
に触れてみたいと思います。

「頭が悪いとか話が下手なんじゃないね。道具がシンプルで自由度が高かったんだね」という理解や自由を、ご一緒に広げてみたいな、と思います。

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「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!