芝生

ちょっとした荒行……いきます。【物語・先の一打(せんのひとうち)】36

斜めうしろからは、困ったように奈々瀬がのぞいていた。
高橋は、自分の身に「起こらなかった」危険なできごとに、戦慄した。

もう少しだけ早くティッシュボックスを手元にひきよせ、もう少しだけ早くアレをナニしてしまっていたら。そしたら……!!

こともあろうに親友と、大好きだからこそ初恋同士を結び合わせてやりたいと思っている女の子と。二人ともに、まるで母ちゃんに部屋を覗かれた思春期男子のような光景を見せてしまうところだった。

どこかのパラレルワールドでは、その恥ずかしすぎる出来事は、起こっているに違いない。
恐ろしい。恐ろしすぎる……。


高橋は思った。自分には確かに、あれこれ災難が降りかかってくることはあるが、肝心なところは運がいい。さすがだ……


涙を寝間着の袖でふきながら、四郎は訴えた。
「俺こんなわけのわからんこと、お前に言っとるのが、そもそもわけわからんのやけど、ほんでもお前がおらなんだら、誰にも助けてもらわずに、黙ってひとりで抱えたままやったと思う。俺、助けを求めれたの、画期的なんや」

「……それは、助けてくれと言っているわけだな」

自分自身の高ぶりには気づかれぬよう、高橋はきわめて落ち着いた声で話しかけた。あぶないあぶない、身体情報読みの奈々ちゃんは、あきらかに半分かた気づいている……しかし、野郎二人ともが興奮しちゃってるこの状態なら、もはやどうってことない。だいいち奈々ちゃんには、思春期の弟が二人もいるんだ。

「どう助ければいいんだ」

「お前このあいだ言っとったように、俺のこと、毛布で巻いて」

「奈々ちゃんは」

「ごめん奈々瀬、今夜ひとりで寝て……」四郎はつっかえつっかえ言って、またひとしきり涙をあふれさせた。

「どうする奈々ちゃん、途中まで……四郎がおちつくまで、横にいる?」

奈々瀬はうなずいた。「適当に切り上げて、隣にもどるから。ちょっとだけ、そばにいる」

「ありがと」
もうとっくに、時計の針は夜中もいいとこだ。明日の仕事がどうなることやら。

高橋は四郎の布団をひと流れ、自分の部屋に運び込んだ。
言われたとおりに、四郎に毛布を巻きつけてみた。

(修学旅行の布団蒸しって、明らかにこうじゃないよな)と思いながら。

四郎は壁にもたれた。


「人と触れていると、落ち着かないんだな」高橋は、ハラスメントの聞き取りをするときのように、ゆっくりと深い声でたずねた。「今はどう」

「今、おちついとる」毛布にくるまった四郎は、壁をぼんやり見ながら答えた。「俺、俺んなかの人が嫌いなトコ、かたづけて……奈々瀬にやさしくしたれるようになりたい……」

静かな、控えめな声が、今はいっそう、たゆたうように響いた。

ふと、高橋は……
自分と、四郎と、奈々瀬の、三人ともの呼吸が、みごとに同期していることに気づいた。この何気なさでペーシング(ペース合わせ)しているとは……この三人は、なんなんだ……

「いっつも、ひとりでは困っとった」四郎がつぶやく。「隣におってくれ……自分で自分のなかに降りてみる……」

高橋は、「それは、どういうこと」と聞くのを控えた。もうすでに、四郎が自己催眠に似たモードに入っていることに、うすうす気がついたのだ。

ただ、そばにいればいい。

この男はやってのける。

「どんなふうかだけ、声で教えてくれ」同じトーン、同じ速度、似せたささやきの大きさで、高橋はつぶやいた。

奈々瀬は一言も発しないで、毛布にそっと手を置いていた。

「俺の家の庭の樟が」四郎は、心象風景のようなものを語り出した。「なんでやしらん、広い広い草っぱらにあって……月が出ておって……」

広い広い草原の木。

「俺、そこへ歩いて行って……」

樟の近くまで来る。すると。

「なんでか、樟にドアがついとって……開けると……下へ続く暗い階段があって」

ぼんやりと高橋は思った。まるで催眠の誘導のようだ……

「俺、いっつもそこ、下りれんかったんや……今、ぬかるんだ階段、ずるっとすべったまんま、下へ下へすべりおちとる……もうひとつドアがあって……あけると……」

四郎は、ため息のように言った。「ああ……やっぱりみんな死んどる……俺のせいや……六十人ぐらい、死んどる……」

四郎は長いまつげを伏せて、深い罪障感にひたされた声をだした。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!