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中卒ドロップアウトの現場職人から外資系年収1000万円までの軌跡 -前編-


序章 本記事と私の経歴について

 私は現在外資系IT企業に勤めている30代のサラリーマンです。外資系企業に就職したことで年収は1000万円を超えることができました。この企業は私の憧れの企業であり、最先端の技術を駆使しグローバルに展開している米国企業です。しかし、現在の状況に到るまでは決して順風満帆ではなく、むしろ非行に走り社会的にドロップアウトした過去もありました。なんとか這い上がるものの怠惰な性格から、何度も挫折することも経験しました。そのような日々の中で、わずかな「行動力」と自分を蔑む人々を「見返したい」という思いを原動力になんとかここまでこれました。これが人生の正解か、成功なのかはわかりませんが、将来に悩んでいる人やこれから何かに挑戦したいと思っている人たちに、微力ながら自分の生い立ちや経験が少しでも役に立つことができればと思い現在に到るまでの経緯を整理しました。

以下は、私の経歴のアウトラインです。

●幼少期〜小学生時代
順風満帆、保育園に通っていましたが、読み書きも自然にでき、特に勉強に関して苦労した覚えがありませんでした。小学生になっても宿題は全くしなかったし塾にも通ってはいませんでしたが、テストは常に100点でした。正直周りの同級生がなぜこんなこともできないのかという思いでした。

●中学生時代
反抗期を経て授業も放棄し、常に遊んでいました。ここで社会的にドロップアウトを経験します。きっかけは勉強すること自体があほらしくなった、というのと、必要性を感じなくなったというのがあります。また、どこか周りと違ったことがしたいという誤った思考によるものだと思います。
(周りと違うことがしたいという考えは今でも健在ですが)

●高校生時代
何とか高校に入学するも直ぐに自主退学します。最初から卒業する気はなかったのだとも思います。働くのも面倒だし、とりあえずもう少し遊ぼうかなというモラトリアムを満喫したいための期間でした。

●零細企業社員時代
知り合いの紹介で建築系の個人事業会社に就職します。いわゆる零細企業です。自分と似たような人たちと働き、お金を稼ぐことが楽しいと思えましたが、同時にこの業界の限界を感じるようになります。

●大学生時代
建築業界で成功するにはかなりの労力が必要なので、単に稼ぐだけなら大学に行くほうが効率がよいのでは?と遅まきながら理解します。ここで勉強することの必要性を感じ、周りには無謀だと言われますが国立大学の受験を目指し、進学することになります。

●SES企業社員時代
就職活動に失敗し、中途でSES会社に就職します。SESとはいわゆるITサービスの派遣会社で基本的にお客様先に常駐しながらシステム開発業務などを行う会社になります。本社はただ人を派遣するだけで、自社業務はほとんどなく、社員同士も面識がない人がほとんどでした。自分はどこの社員として働いているのか常に帰属意識を問われる業態でしたが、スキルを得るためと割り切っていました。

●上場企業社員時代
SESのお客様先の環境や仕事内容が運良く、レベルが高く、上流工程含めて様々なことを任していただくことができました。これにより気づけばそこそこの経験と資格を持っていたのでこれを武器に上場企業に転職することができました。ホワイトな会社で同僚は皆高学歴、上司も皆優しく、帰属意識も強く芽生えました。

●外資系企業時代
上場企業入社時はこの会社で一生働こうと思っていましたが、自分の理想とギャップを少しずつ感じるようになりました。また年齢的にも最後にもう少し背伸びして挑戦することができるのではと考え、自分の限界を突破することを決心し再度挑戦を重ねます。苦手な英語を克服し、外資系IT企業に転職することになります。

以上が現在に至るまでの簡単な経緯となります。これから、自分の人生を振り返り各時代ごとに自身の体験談やその時感じたこと、葛藤やターニングポイントなどを共有して行きたいと思います。
素人による執筆のため読み辛いところもあるかと思いますがご容赦ください。自分なりに校正を重ね、できるだけ読んで価値があるものと思われるような記事にしました。

本記事では前編として、大学受験時代までの内容を整理しました。
随時後編も執筆中です。(2022/9/26)


第一章 幼少期の夢と自分の価値観

 自分の人生を振り返る前に自分はどのようなパーソナリティを持っているのかここで整理しておきたいと思います。

 幼少期から夕方のNHKで放送されていた海外コメディドラマ枠の作品に熱中していました。母子家庭で一人っ子だったので自然と内気な性格となり、そのため逆に対照的な欧米式のオープンな性格とコミュニケーション文化に何となく興味を持ち魅力を感じていたのだと思います。いつかは外国で、もしくは外国に関係する何かをしたいと漠然と感じるようになっていたと思います。また洋画も好きで、特に天才的な主人公などが出てくる映画やアメリカン・ドリーム等を描く物語も好きでした。あまり恵まれていない境遇の主人公が運や努力等で自分の人生を切り開いて行くようなストーリーのものです。こういった欧米のドラマや映画が自分の人格形成の一部を形成してきたような気がします。特に影響を受け、記憶に残っている作品は以下のようなものです。

・フルハウス
・グッドウィルハンティング
・ビューティフルマインド
・オーシャンズ11
・イミテーションゲーム
・幸せの力
・ソーシャルネットワーク

 また天邪鬼なところがあり、褒められるよりも否定されるほうが見返してやろうというエネルギーが働き努力や行動する傾向にあります。あまりに攻撃されすぎるとやる気がなくなる時もありますが、変におだてられるよりかは足りないところを指摘されたり、認めてくれなかったりする方が、「どうにかしてやろう」という気になり、努力する性格でもあります。これはたまたまYoutuberのヒカルさんの切り抜き動画を見ていた時に同じようなことを言っていた記憶があります。彼の努力の源泉は自分のことを否定したり、嫌いな人をどうにかして見返してやろうという、どちらかというと負のエネルギーを元にしているのですが、この考えにはとても共感するところがありました。

 また、変なところで自信を持てないところもあるので、周囲の人と比べて用意周到なところがあります。プレゼンがある場合は何度も原稿を修正したり、繰り返しレビューしてもらったり人一倍時間をかける傾向にあると思います。テスト勉強も同じで、周囲が1日2、3時間程度勉強しているのであれば自分は最低でも4、5時間すればなんとかなるかと、自分に自身をつけるために、準備を万端にするためにできるだけ時間をかける傾向にあると思います。一方で急にやる気スイッチが切れてやらないといけないことをギリギリまで引き伸ばして保留にしてしまう場合もあります。何か本当に必要に駆られたり、追い込まれたりしないと打ち込めない性格でもあります。

 以上のことから自分の性格を整理すると、内気、負けず嫌い、用意周到、怠惰、と言ったところでしょうか。


第二章 幼少期から小学生時代

 幼少期は父が早く他界したこともあり、母方の地元である地方都市で過ごします。地方都市ではありますが中核市であったのでそこまで田舎ではなかったと思います。母は女手一つで私を育てあげてくれたので、私が幼少期の頃から仕事と家事、育児を両立していました。物心着いた時はこの中核市の保育園に通っていました。いつ覚えたかはわかりませんが、この時は読み書きはできるようになっていました。内気な性格で初対面の人と挨拶することが苦手で母の後ろに隠れているような子でした。その後、小学校に上がる際に公営団地の公募に当選し、引っ越すことになります。保育園と同じ市内でしたが学区が変わるので保育園の友達とは離れ離れになります。

 小学校生活が始まる際に、子供ながら内気な私はとても不安だった記憶があります。しかしそれは杞憂で、小学校に入学する前にすぐにS君やM君と仲良くなります。公営団地に住んでいたため自然と近所の子供たちが勝手に集まり、気づいたら友達になっていました。今は連絡も取っていないですが、S君やM君とはその後も成人するぐらいまでは一緒に遊んでいました。

 私の小学校は集団登校で、朝は地区ごとに集まって登校していました。帰りは自由でしたが、土曜日がまだ午前だけ授業があった時代だったので、土曜日の下校の時だけは集団下校を行なっていました。母が仕事で家にいないため、基本的に帰りは近所の祖母の家に帰っていました。祖母の家で夕食を食べ、母が迎えに来て一緒に家に帰る、という生活を小学校3年生ぐらいまでは続けていたかと思います。その後は鍵を持たせてくれるようになるので、一人で家に帰り、母の帰りを待って家で夕食を食べるようになります。そのため、小学校3年生までの土曜日の一斉下校の際は、一斉下校でありながら、私だけは家とは違う地区にある祖母の家に帰らないとダメなので、登校班単位で集団下校のために学校のグラウンドに集まる時間の前に、授業が終わったら一人で逃げるように帰っていた記憶があります。この土曜日の帰りがとても苦痛でした。自分は父がいないため普通の人たちとは違うんだなと感じていました。

 授業の方は特に特に難しいと感じることもなく、テストでは常に100点しか取っていなかったと記憶しています。ただ、一度だけ、理科の星の授業で減点をされたのを今でも覚えています。夏にみられる、はくちょう座、わし座、こと座の三つの星を結んで描かれる、「夏の大三角」を「夏の大三角形」と解答したことにより、減点されました。その後、いろいろ調べたところ、夏の大三角形と書かれている書籍もあり先生に抗議した記憶があります。すごく負けず嫌いだったのと何か違和感があったのだと思います。この時から大人でも間違えることはあるし、大人のいうことを全て聞くことが正しいのではないと思うようになりました。

 小学生の頃の友人関係は内気ではあったものの、誰とでも分け隔てなく仲良くしていました。その後、阪大や京大、医学部に行くようなとても優秀な子とも当時は仲良くしていました。ただこんな自分でもなぜか宿題はほとんどやらなかったですし、次の日の準備も面倒で教科書を学校に置きっ放しにする、いわゆる置き勉をやっていました。最近、ランドセルが重たいからと小学生がキャリーバックのようなものを開発して物議を呼んでいますが、そもそも小学生のころから大量の教科書を毎日持ち運ばせる意味があるのかと今ふと思いました。あまり合理性もないので、学校にロッカーを設置し、そこに置くようにしておけばよいのではと思います。

 その後、一部の優秀な子は中学受験をしますが、地方都市でもあるし、また友達と離れ離れになるのも嫌だったので中学受験自体には興味ももたず、みんなと同じように公立の中学校に進学することになります。

 小学生の頃は男子はサッカー選手や野球選手、医者等、いろいろ将来の夢があると思うのですが、自分はそういったものがありませんでした。卒業文集にも将来の自分の職業として、「マンションの大家さん」になると書いた記憶があります。当時から現実主義で、同年代とは少し変わった考えを持っていたのかなと今では思います。


第三章 中学時代

 公立中学校に進学しますが、小学校6年生あたりから地元のヤンチャグループと付き合うようになり、中学校進学とほぼ同時に少しずつ、道を踏み外すようになりました。今思うと単なる中二病でとても恥ずかしいことでしたが、当時はそれが楽しかったと感じたのだと思います。小学生の頃はスポーツができる男子がモテて、中学生になると不良男子がモテるようになります。自分もこのような浅はかな考えから非行に走ったのかもしれません。今でもこの中学時代の友人とは地元に帰った際など親交があります。皆家庭を持ち、起業したりなどして更生して頑張っている仲間です。それでも一部の人間は道を踏み外し続ける者もいましたが、そのような者とは自然と疎遠になっていきました。小学生時代の友達であるS君やM君も疎遠になっていったうちの1人です。

 中学1年の頃にタバコを覚えました。初めて吸ったのはセブンスターで、今思うとかなりキツイ煙草です。最初はタバコの吸い方もわからずいわゆる金魚という吸い方でただ吹かしていました。その後、実際に肺に入れて吸うようになり、中学2年の時には完全にニコチン依存症となっていました。そこから約13年間ほどタバコを吸い続け、禁煙外来を通じて今はなんとかやめることができています。

 この時期はやることといったらコンビニや友達の家に溜まってウダウダ話をしているだけで、全く生産的なことはやっていませんでした。どこどこの先輩がヤバイとか、どこどこの中学校がヤバイとかそういった話ばかりです。マンガは不良マンガの王道である田中宏さんの作品やクローズ等を毎日繰り返し読んでいた気がします。ゲームは64のスマブラが全盛期で当時は本当に世界で自分が一番最強なのでは、と錯覚するほどのめり込んでいました。中学時代はほとんど授業に出席せず、行ったとしても午後からの授業のみでした。逆に学校に行かなくなったことで学校での居場所がなくなり、学校に行く意味もなくなってきたと当時は考えていました。毎日朝まで遊んで昼頃まで寝るという人間的には最悪な時期だったと思います。

 この世界では目立って、人よりもより危険なことをすることが凄いというような美徳があり、どんどんと悪い方向に進んでいた時期でした。金髪、ピアス、タバコ、バイクは必須で、唯一暗黙のルールで薬物はご法度でした。自分もタバコですら簡単にはやめられなかったので薬物なんかに手を出していたら確実に人生終わっていたと思います。実際に周りでやっている人もいなかったのでこれは不幸中の幸いでした。

 中学時代、唯一チャレンジしたことはボクシングでした。当時はプロになる前の亀田三兄弟のドキュメンタリー等を見て刺激されました。また、ヘビー級のK-1の全盛期で、ジェロム・レ・バンナに憧れていました。バンナは周りが遊んでいるときに俺は練習したから強くなったんだと、試合前の会見で話していたことを今でも覚えています。このような格闘技選手の練習に打ち込む直向きさには感化されますし、今でもそういった背景を想像しながら格闘技観戦するのが好きです。また、当時はマンガの「刃牙」の全盛期でもあったので格闘技の盛り上がりは最高潮でした。こういった時代背景から地元のボクシングジムに不定期ですが通うようになりました。結局タバコを吸っているのと、視力が悪くなったので続けることが難しく、中学卒業するぐらいの時期に辞めてしまいました。この年になって思うことは何か部活等でスポーツに真面目に打ち込んでおけばよかったと思います。大人になって新しくコミュニティに参加したり作ろうとしたときに、スポーツは人間関係の構築の一つの手段として役立つと考えます。草野球やフットサル、テニス等は大人になってもやっている人は多いです。陸上等をやっている人はマラソン等に活かせると思います。スポーツをやっていることでそういったコミュニティに参加し易くなるのではと考えています。

 勉強ですが勿論全くダメでした。中学1年の初期から勉強を放棄したのでついていけなくなりました。小学生の頃のように100点を取ることも勿論できなくなり、余計勉強をしなくなりました。もともと宿題すらしておらず、家で勉強する習慣もなかったもので全くダメでした。特に英語は初期のBe動詞と一般動詞の違いを理解することもできていなかったので一番苦手な科目でした。こんな自分でも中学を卒業する時期が近づき、周りが皆、進路を考える中で初めて自分はどうすればいんだろうと考えるようになりました。
 
 当時の担任の先生からは名前を書けば入れるような県内でも一番偏差値の低い私立の高校のパンフレットを渡されました。家庭のことを考え、私立の高校は最初から無いなという思いから、一度、進学を考えることを辞めました。高校を卒業してもその先、何をやればよいのかわからなかったので、進学する意味がわからなかったのです。ただ、そうはいっても周りがどんどん進学が決まって行く中で本当にこのままでいいのか自問自答するようになり、とりあえず高校に入るだけ頑張って見ようと思いました。実際に続けるかどうかはそのあとで考えることにして、まずは自分でも行けそうで、かつ終盤でも受験できそうな高校を自分なりに調べたところ、定時制高校の存在を知りました。これは公立高校であり、定時制高校でありながら夜間ではなく日中に授業があるため、自分にとっては普通の高校と全く変わらない印象で、授業料も安かったので親の負担にならないだろうと考えこの高校に受験することに決めました。

 願書を準備し、受験期間としては1、2ヶ月程度しかなかったと思います。受験科目は確か国語、数学、英語のみでした。英語は単語帳だけをやることにして、文法は捨てました。今思うとこれは正解だったと思います。英語学習をやっている今、文法は一朝一夕で身につくものでは無いとわかりますし、文法がわからなくても中学レベルの単語であれば簡単なので単語の意味がわかれば何が問われているか推測することはできます。国語は元々読解力は苦手ではなかったので、無勉強でした。数学だけ当時N君という友人に教えてもらい仕上げました。結果、なんとか合格することができました。受験した高校のレベルが低いこともありますが、中学3年間の勉強範囲は案外狭いので、集中してやればすぐに終わらせることができます。実際に真面目にやったのは数学だけであり、数学の教科書を最初から解いていっただけでした。

 偏差値の低い高校でしたが、自分で自分の人生の選択をし、これに向けて計画を立て、実行し、実現させることができました。この経験は自分にとっての初めての成功体験となり、今後の人生の糧となりました。一方でここで真面目に英語をやっていなかったので、この英語嫌いが今後の自分を苦しめることになります。


第四章 高校時代

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