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「パワー・プレイ」 -あとで考えよう-

言うまでもなく怪文書なので、そんな人いないと思いますが、あまり真に受けないようにお願いいたしします。健康第一です。

闘魂再教育センター

おれは日ごろスゴイPROたちに憧れる

闘魂だ。公認会計士として企業のアドバイザーやコンサルティングをやっている体でインターネットでは暮らしている。まあ、実際のところ、収入の大部分は、「なんちゃら支援」みたいな契約で成り立っているのであながち間違いではない。とはいえ、インターネットで見かける「〇〇会計士」みたいな、X(twitter)会計クラスタに暮らしているようなアニキ(?)たちのPROっぽい発信などを見ていると、おれごときがアドバイザーとかコンサルタントと名乗るのは、少々はばかられるような感じのする今日この頃である。

「インターネットの住人たちはPRO過ぎるのであまり参考にならない。」

おれはこの言葉を心に刻み、一日3回鏡の前でとなえることにしている。健康の秘訣だからみんなに紹介しておきたい。

そして、昨今では、「仕組み化」、「自動化」、「デジタル」などというシャレオツな言葉が、PROたちの口からしょっちゅう聞かれる。属人化は組織にとって大きなリスクのひとつ・・・・賛成だ。どんなポンコツ(言葉悪い)でもパフォームできる環境を組織は目指すべきだ。無理な人は無理・・・・という現実は一定程度あるが、間口を広げておいて損はない。今後ますます人材は貴重になるのだ。間違いない。

おれは、こうしたイケてるPROたちの言葉にいちいち頷きながら、しばし自分の手を見つめ、おもむろに遠くに目をやり、そっと胸に手を当てながら、こうつぶやくのである。

「どうしてこうなったんだろう・・・・」


おれは基本的にパワー・プレイでやってきた

もはや恥ずかしげもなく言うが、おれが得意とするのは、なんといっても「パワー・プレイ」だ。深夜に調書ファイルと穴あけパンチが空中を飛び交い、労働時間管理やハラスメントなどというスイーツの・・・・もしかしたら人権という概念も・・・・存在しない古代監査法人出身の民として、20世紀を若干引きずりながら今を生きていて、最近は主に老眼が進行してきたおれ自身(*1)と戦っている。将来も生き残れるかどうかは少々アヤシイが、それは考えないでおこう。

おれは、今年の前半もバッキバキに「パワー・プレイ」をキメてしまったことを白状する。そんな予定ではなかったのだが、一周回ってそうなった。何人かに、「今年こそはワーホリ(ワーカホリック)を治したい」と宣言した記憶があるが・・・・まったく達成できていない。「返信の時間帯がおかしいw」、「こんなに作業してくれると思わなかったww」、「何歳までそれやるつもりなんすかww?」、クライアントからの生暖かいフィードバックの数々からうかがい知れることは、おれも、いよいよクレイジーなオーラをまとい始めたらしいということだ。忸怩たる思いである。

重要なことを先に述べておくと、「パワー・プレイ」には向き不向きがある。長時間労働で体を壊したり、メンタル不調に陥ったりという話はいくらでもある。何が決定的な差になるのかはおそらく未だ解明されていない。取り敢えず経験的にわかっていることは、最低睡眠時間さえ確保されていれば何時間でもイケるタイプと、まったくそうではないタイプがいるという事だ。そして、多くの人はその間のどこかにプロットされる。決して油断してはいけない。

これを読んで、万が一「パワー・プレイ」のすばらしさに心打たれることがあったとしても、本当に体力がないタイプやマインドが「パワー・プレイ」向きでない場合には「パワー・プレイ」を実行することが著しく難しいこともあるという点には注意しておいてほしい。

KUSOほど頑丈なタイプも一応気をつけるべきだ。こういうのはえてして、「おれ、体力と根性には自信があるんで!」というようなウカツなタイプのほうが危ないと相場は決まっている。そういうやつは、ゾンビ映画のアメフト部やチアリーダーぐらい、はかない運命にあるのだ。

おれはこうしたことを、決して忘れまいと心に誓い、おれのような奴が一番危ないのだ、と恐る恐る進んできたわけだが、結局まったくどうもならないまま、なんか無事(?)に会計士人生を過ごしてきてしまった。

何かがおかしい・・・・おれは本当に「パワー・プレイ」を続けているのか?・・・・単にそう見せているだけで実際はサボっているのか?・・・・そういう問いについて最近考えているところだが、まだ答えは出ていない。微妙に後者である可能性が高いような気がしないでもないが、それはおいおい考えるとしよう。

というわけで、今日は「パワー・プレイ」について考えたい。

「パワー・プレイ」は長時間労働で不健康というイメージがあるが、健康に悪いのは長時間労働全般であって、「パワー・プレイ」は必ずしも悪者とは言えないような気がしているところだ。定時にあがるさわやかな「パワー・プレイ」があってもいいではないか。おれが理想とするのは、明るく正しく健康に「パワー・プレイ」することだ。

バリバリの生存者バイアスのような気がしないでもないが、「パワー・プレイ」には意外とヘルシーな側面があり、結構サステナブルかもしれないと思うこともある(事例はおれ)。無理をせず「パワー・プレイ」を続けるうえでは、リソースマネジメントの視点が重要だ。さらに、実際にはさほど「パワー・プレイ」ではないのに「パワー・プレイ」的に見える仕事の見せ方、についても少し触れてみたい。

では、まず「パワー・プレイ」にとって重要な要素から考えてみよう。

わかると思うが、念のため補足しておくと、これはデスクワークの話だ。リアルにパワーが必要な仕事にはおれはまったく向いていない。もやしっ子だからだ。
また、おれは基本的に外部アドバイザーとしてクライアントである企業等に関わっている立場だ。よって、会社勤めの人には全く役に立たない話であることも十分考えられる。何より、労働時間とかがビシバシ管理されているピュアホワイト企業とかで、若手が無限に「パワー・プレイ残業」を繰り出したりすると、何なら管理者の立場もヤバくなるかも知れないので、「パワー・プレイ」的なマインド以外は取り入れないほうが良いだろう。注意書きは以上だ。他にもあるかも知れないが考えるのが面倒になってきた。

闘魂再教育センター

パワー・プレイの重要要素

・まずやる

仕事を始める前に、これはやるべきなのか、もっと方法があるのでは?そういうことを考えたくなることもあるだろう。「パワー・プレイ」ではそういうことはあまり考えない。まず、やるべきことが「だいたい」明らかなタスクの実行からスタートする。そして「走りながら考える」。これが「パワー・プレイ」の基本だ。

四の五の考えないというのは、省エネのコツである。人間の脳がやたらとエネルギーを消費することは、マインドスポーツのPROである棋士たちが対局中におやつを食べることからも明らかだろう。考え抜くことにこだわりすぎると、一歩も前に進めないままに、おまえはマインドをすり減らし、エネルギーを使い果たし、あり得ないチョンボをして、戦場に辿り着く前に入り口で埋められるはめになる。それは確定的にあきらかだ。

抜群のアイデアというのは、手を動かす中でこそ出てくる。これが「パワー・プレイヤー」の論理だ。走れ。先ず走るのだ。

「いやでも、結局それいらなかったね?ってことにならない?」そんなパワー不足な考えにとらわれる者もいるかもしれない。一見もっともだし、実際その通りになることもある。

だが、もう一歩考えてもらいたい。

世の中にはやってみないとわからないことが沢山ある。最初から正解がわかっていたら、さすがにそっちに向けて走り出せと誰かが言うだろう。それがわからないから実務は大変なのだ。おれたち「パワー・プレイヤー」が走ったあとの地面を見て、訳知り顔で「そっちじゃないでしょ、常考www」などと言うやつは、その辺がわかってない。

おれたちが走ったことによって、それが間違いであると判明する、みたいなことは多々あるのだ。評論家気取りの後知恵マウント野郎の言う事に関わって1ミリでもメンタルをすり減らすのはエコじゃない。スポーティーかつさわやかに「そっすか!じゃあやり直します!」と、ただ突き進むのみである。直ちに正解がわからないプロブレムとの闘い・・・・未踏の荒野を走ることに誇りを持ち、過ちと友人になるのだ。

学問分野などでは、何の成果も挙げられなかった実験は、何の成果も挙げられないことを明らかにしたことにより、一定程度評価されるべきとされている(成功よりは評価されない)らしい。これは仕事にも当てはまる。そうした、失敗の重要性を知らず、人を背中から笑うような奴らの言う事をいちいち気にする必要はない。いずれ豆腐かなんかにぶつかってこの世からいなくなるだろう。

たとえ全力で間違った道を突き進んだとしても、そこからチームに「失敗」という重要な成果と学びをもたらすことができる。そして、未踏の荒野を2回走ったおれたち「パワー・プレイ族」は、1回舗装道路を走っただけの奴より間違いなく力を蓄えている。この積み重ねがおれたちのパワーを何倍にも高めていくのだ。

「パワー・プレイ」には見切り発車がつきものだ。「まずやる」を徹底していると、「アレ?なんか違うな・・・・」は避けられない。そんな時は直ちに軌道修正し、後ろをふり返らず、新たな目標に向かってまい進する。そんな柔軟さも「パワー・プレイ」だ。

・来年のことは考えない

そもそも、走りながら考えないといけない状況というのは、わりかし緊急であることが多い。仕事と言うのは、理想的には次回以降に向けて、「これを継続していくためには、こういう整備をしないといけないな」、などという事を考えたうえで行うものとされている。が、そんなひまはない。そういうシチュエーションも現場で多々発生するものである。

これもさっきと同じだ。来年に向けて考えるべきことは、手を動かす中でこそ実感をともないつつ明らかになってくる。これが「パワー・プレイヤー」の論理だ。走れ。走れば見つかる。

そして、取り敢えず走り切ったおまえは、走る前のおまえとは比べ物にならないほど、業務を理解し、論点を把握し、力をつけているだろう。つまり、走る前のおまえより今のおまえのほうがはるかに有能なのだ。

「難しいことは有能な奴に任せろ」

これは「パワー・マインド」のひとつだ。余計な脳みそを使うのはエコじゃない。

ただし、その有能な奴が、来年のおまえである可能性は大いにあるとおれは考える。荒野を走りぬいたおまえだからこそ提案できる効率化策があるだろう。双眼鏡で後方から眺めているような奴らには出せない、血肉をともなったアイデアが「パワー・プレイ」からは生まれてくる。

どうしても良い効率化策が出なかったら、次回も「パワー・プレイ」すればいいだけの話だ。どうやったって、2回目は1回目より早く、楽に、クオリティ高く仕事ができる。それがなんでなのかは、もっと賢い評論家どもに考えさせればいいだろう。他人のメンタルパワーを有効活用するのだ。

・実行者となる

世の中には、下積みを終えたら上位職について、手ではなく主に口を動かして食べていくことがまっとうなキャリアであると考えている奴らが多数いる。それはそれで良いが、ひとつ問題がある。

みんながみんなそうすると、どういうことが起こるか。結局「なんじゃかんじゃ言うやつ」ばかりが多くて、「やるやつ」が少ない、という現場が全国各地に発生するわけである。

「で、誰がやるの?」と、まあこれがしょっちゅう問題になるわけだ。昨今、現場にタフな若者が補充されることはあまり期待できない。多少歳を食っていようが、誰かがプレイヤーをやらなければならないのだ。

そこで重要なのは、「では、〇〇という方針だと思うので、作業は私がします。」という一言を言う事だ。

そうすると、あんまり頭を使わずに・・・・つまり貴重なメンタルパワーを温存したまま、なんかチームで非常に役立ってる感を醸すことができる。これは結構マジでありがたがられる。

もちろん、仕事の段取りが重要でないということではない。貴重なメンタルパワーを組織に対してポジティブに使ってくれる偉人はリスペクトすべきだ。しかし段取りだけしていても、仕事は終わらないという事も忘れてはいけない。現場で何かをクリエイトするプレイヤーなしに、何事も前進することはないのだ。前進、前進させるのだ。

しかも、前述のとおり、やってみて蓄積される経験というのは案外でかい。即席で学んだ知識であっても、めっちゃプラクティスで活用するので定着しやすい。次に類似の問題を見た時に、直感的に「これはなんか気をつけないとヤバいやつ」という野生のカンも働くようになるだろう。これは、ずっと机上にいると、結構学ぶのが難しいことだ。1回の実行は100万回の脳内シミュレーションに勝る。

実行を買って出ると、みんなからやりたくない仕事をやるやつという評価を得られると同時に、希少な経験から得難い知見を得ることが出来る。既に2度おいしい。

しかも、100万回脳内シミュレーションをすることや、エンドレスな出口のない会議で消費されるメンタルパワーの量に比べれば、「パワー・プレイ」で失われる体力などタカが知れているのだ。つまりエコでもある。

思考力は貴重なリソースである。おれは、自分の生きる意味や人類の存在する理由・・・・クラゲと人類の価値に違いはあるのか?・・・・そして宇宙時代の会計とは?・・・・そういった重要な問題にリソースを配分したいのであって、正直日常的な仕事などにメンタルパワーを使っている場合ではない。

どうせ答えのない問題を考えるのであれば、よりスケールの大きいことを考えたいものだ。ゆえにおれは、メンタルパワーを温存し、フィジカルパワーつまり「体力」を活用して仕事をし、報酬を得たい。そのためには、ようわからんプラン策定などに深くかかわっている場合ではないのだ。実行。実行あるのみだ。寝ればだいたい回復する体力をカネに換えるのだ。人体の回復力を信じろ。

ちなみに、これは会社組織人には当てはまらない場合もあるかも知れないが、外注で仕事を受ける場合、実行役も案外報酬がもらえることは強調しておきたい。タスク量(所用時間)によっては結構イカツイ額をもらえることも稀にある。何しろ多くの人は、なんかしらんが手を動かすことが嫌いなのだ。そこに「パワー・ハック」の余地がある。社内人材を使う事に比べるとおれの単価は完全な上乗せコストになる。それでも外部に頼みたいというニーズが実際あちらこちらにあるわけだ。

パワー・プレイを再評価する

・頭脳労働の危険性を考えろ

「パワー・プレイ」のポイントは、体力をうまく使って、メンタルパワーの消費を抑えるところにある。

一般には、「頭を使う」ほうがエコな感じがあるかも知れないが、おれは、むつかしい仕事は多かれ少なかれメンタルを削られるものであって、ヘルシーではないと考えている。何かサイエンス的な根拠があって言っているわけではないが、人間のメンタルパワーは有限であって、蓄積したダメージの回復には結構時間がかかる。おれはそういうモデルで人間のリソースを捉えているのだ。

普通、危険な労働といえば、物理とか化学とかの点で危なく、ワンミスで文字通り致命傷になりかねないようなものをいうだろう。これに配慮するのは間違いなく重要なことだ。忘れたころにやってくる労基署にボコボコにされたり、現場で取り返しがつかない事故(*2)が起こる前に、安全衛生委員会みたいな連中がサボっていないかどうかはマジでしつこくチェックしたほうがいい。IPOがかかってるから、とかそういうことじゃなく、人としてそこはちゃんとやるべきだ。

しかし、おれは思う。頭脳労働は直ちに身体に致命傷を与えるものではないかも知れないが、中長期で見るとメンタルに悪そうな感じをビシビシと感じさせるものだ。ひょっとして、これも結構な危険有害労働なのではないだろうかと。

確かに、世間にはもっぱら頭脳労働に明け暮れている学者のような人種もいる。学者が頭を使いたくないと言い出すと、おまへはいったいなんのために存在しているのだ、と言いたくなるだろう。しかし、これは、肉体でいうアスリートと同じようなもので、その道の才能あるPROならではの特殊な事例と考えるべきだろう。

一般人にアスリートばりの高負荷なトレーニングを課したら速攻で体を壊すに違いない。とすると、同じように、一般人に高度な頭脳労働を課すと、遅かれ早かれ調子を崩すのではないか?という疑問がわいてくる。これを抜け目のない科学者たちが検証した場合にどういう結論になるかはわからんが、毎日毎日仕事で頭を悩ませている人間があまりハッピーじゃなさそうなことぐらいは、おれにだってわかる。

だいたい、ビジネスにおいて難しい仕事に分類されるものは、単純に理屈が難しいとかではなく、勝手なことばかり言う隣人たちを説得して話をまとめたり、テコでも言う事を聞かない部下や他部署の人間をあの手この手で篭絡して協力させるといった、360度どこから見てもメンタルが疲弊しそうな感じの仕事ばかりなのである。

その分、メンタルに高負荷な仕事は給料のわりが良いのかも知れない。しかし、それはサステナブルな仕事と呼べるのだろうか。ワーク・ライフ・バランス的に一見問題がありそうな「パワー・プレイ」のほうが、メンタルパワーのロスも考慮するとバランスがいい、そういうことはないだろうか。

・パワー・プレイは整う

「パワー・プレイ」はその名のとおり、「あんま考えない」を旨とする。語弊はあるが、いったんそれぐらいシンプルに捉えたほうがいい。

「パワー・プレイ」道の神髄は、作業を文字通りシンプルな作業とし、心を無にしてオートマチックに取り組むことにある。俗世の悩みをいったん忘れて、成果物に集中することで心を整えるのだ。心配しなくても、最低限度の思考は脳が勝手にやってくれる。おれたちのやるべきことは、モニターに集中し、ペタペタ数字とか式をコピペして並べたり、バチバチキーボードを叩いて文字を打ち込んだりすることであり、時たま体操して血行をよくしたり、おやつをポリポリしてエネルギーを補充するだけでよい。

「パワー・プレイ」でもメンタルは削られるぞ?、そういう意見もあるかも知れない。反復作業に耐えられないタイプや、作業量のプレッシャーに耐えられないタイプも確かにいる。しかし、心を無にして作業に没頭しているにもかかわらず、メンタルが削られるというのもおかしな話だ。「パワー・プレイ」道を突き進むおれからすると、「ジョギングをしているのに悩みが深まりました」、みたいに不思議なことを言っているようにも見える。

そうなる原因はさまざま考えられるが、結局は「パワー・プレイ」に集中できる環境にない、ということなのではないかとおれは思う。仕事以外で悩ましい問題を抱えていて、必ず定時に帰りたいのに、大量の作業が降ってくれば普通に病みそうだ。職場のやつ全員の性格がオワってるとかもキツいだろう。あと、「パワー・プレイいじめ」にあっているとかも無理だ。

神聖な「パワー・プレイ」を冒涜するいじめとかは論外として、その他の場合、「ここまでやりました、後お願いします」と、比較的言いやすい「パワー・プレイ」的業務と比べたら、何をやるべきかもハッキリしていない不定形の業務のほうが、やはり余程ツラいのではないかということは、思わなくもない。いずれにせよ、仕事に集中する環境がともなわないケースは「パワー・プレイ」ではさすがにどうにもならない。負荷の軽い仕事を担当させてもらうしかないだろう。

環境が整っていたとしても、例えば、仕事をうまいことやってほめられたいとか、なんかカッコいい仕事がしたいとか、ライバルに差をつけたいとか、そういう感じのビジネス煩悩にとらわれていたり、仕事が終わらなかったらどうしよう、みたいな、いち作業者が考えてもしょうがない漠然とした不安に押しつぶされているといったケースも考えられる。おれ、こんな単純作業をするためにここにいるんじゃないんだけどなあ・・・・。そういうタイプのやつだ。

そういう気持ちはわからないでもない。時にはそういう風に考えてみることも必要かもしれない。が、やはり考え過ぎは良くない。パワーをロスする。おれたちのメンタルパワーは有限であり、ややこしい問題をいくつも抱えたまま、さらに目の前の作業でもハイパフォーマンスを出すことなど不可能だ。何かを忘れないといけない。

そこで、作業に集中して心を整えるのだ。「パワー・プレイ」でパフォーマンスを出せば、必ずやスポットライトが当たる日が来るだろう。もっとも、それは新たな「パワー・プレイ」を必要とする現場かもしれないが・・・。

ともかく、おれたち「パワー・プレイ」族は、広大なエクセルシートとかワードファイルに少なくとも1文字、多い場合は何千何万という文字を入力する。1個1個の作業は小さな1歩かもしれないが、確実に仕事を前進させる1歩である。それが誤った道であっても問題ないことは序盤に言った通りだ。おれたちは徒手空拳で議論ばかりしている連中とは違う。

そう、「パワー・プレイ」の良いところは、やったらやった分だけ成果が可視化できるというところにある。人生は答えのない問いばかりである。しかし、「パワー・プレイ」はおれたちに確かな成果を約束してくれる。プロダクト・・・・そうプロダクトの手ごたえがおれたちの歩みを可視化し、傷ついた心を癒してくれるのだ。

・パワー・プレイは案外クリエイティブだ

世の中では「作業」の地位は低い。確かに、完全なルーチンワークの中には、「誰でもできる仕事」という評価が当てはまるものもあるだろう。とはいえ、世の中の「作業」の中には、始めてやる作業や、正解のいまいちわからない作業、のようなものもある。こういう作業はクリエイティブで面白いし、きっとチームにとっても価値あるものだ。

もちろん、そういうクリエイティブな側面のある作業は、完全に脳死で「パワー・プレイ」できるタイプのものではない。それなりに生みの苦しみめいたものがある。ただ、ビジネスで要求される成果物というのは、見たことないアニメ映画のように、完全なクリエイティビティが要求される類のものではなく、ある程度こういうものが必要というのがわかっていて、作りながら微調整していけるようなものが多い。

要するに、誰もやった経験がないとかそんな理由で敬遠されているだけで、作り始めさえしてしまえば、みんなであーでもないこーでもないと言いながら、一応完成まで持って行けるタイプのものが多く、生みの苦しみみたいなものはそれほど大きくはない。必要なのは、一歩を踏み出し、議論を誘発する叩き台を作ることなのだ。

デスクワークで要求される「パワー・プレイ」というものは、完全に「作業」によったものでもないし、完全に「クリエイティブ」によったものでもなく、その双方がミックスされたものが多いのではないかと思う。

ゼロイチ・・・・みんなゼロイチが好きだろう?

文書のスケルトンに、最初の一文字を打ち込むこと。ゼロイチというのはそういうところから始まるのだ。

・パワー・プレイは意外と評価される

見てきたように、「パワー・プレイ」は適切に実行すれば、多少体力は削られるが、メンタル面では結構安定を得られるものなのではないかと最近おれは思っている。おまけにクリエイティブでやりがいもあったりする。

しかし、世の中では「手を動かすこと」の評判は必ずしも芳しくない。外部コンサルでも、指導を前提としていて、作業をやってくれないというところは結構ある。ニーズによりけりな部分はあるが、支援は頼みたいが結局業務負荷が減らないなら意味がない、という話はちょいちょい聞くところである。おれはこの点をハックして「パワー・プレイ」を商売にすることができている。

「手を動かすこと」が不人気な理由に多少思い当たるところがないではない。手を動かし、成果物を作ることには多少のリスクがある。なぜなら、ミスは一義的には作業者たるおれの不手際によるものであるし、ミスを完全に防ぐことはできないからだ。細かな間違いを指摘されるたびに、細かなメンタルダメージを受けるタイプだとツラいこともあるだろう。

ちなみに、おれは、いくつかの「パワー・プレイ」経験を経て、すべてのミスがおれのせいであることこそが、まさしくおれが膨大な「パワー・プレイ」をしたことの勲章に他ならない、というサトリに至った。従って、間違いが発見された場合は、秒で謝罪してすぐさま「パワー・プレイ」により修正することにしている。間違ったらやり直せばそれでいい、これは重要な「パワー・マインド」だ。

ミスを指摘されるのは良いが、面倒なのは、なんかようわからんイチャモン(建設的な意見はもらうとエキサイティングで楽しいものだ)をつけてくる奴だ。しかし、これは「パワー・プレイヤー」として少し慎重になるべき時だともおれは考えている。そう、そういう時はだいたい「手も動かしてねえ奴が何言ってやがる」みたいな気持ちが先に立っていることが多い。それはいけない。他人と自分を比較すると「パワー」は濁ってしまう。ようわからんことを言われたら、言われた内容はまあ無視して、今一度成果物と対話し、よりブラッシュアップできないかに集中すればよい。

実際問題ガチめなイチャモンはむかつくが、しかし、イチャモンをつけるための成果物すらないのはチームとしてはもっと困る状態だ。意見を言うための叩き台が存在してない状態で、空中戦をやっていても、全体的に徒労感が募るばかりである。誰かが手を動かし、素材をクリエイトしたことによって、少々的外れであったとしても、意見が出てきたのだ。その状況を作り出した事に誇りを持つべきだろう。

色々とものを作っていると、あれが違う、これが違うという苦情はつきものだ。残念ながらそのいくつかは、まさしく俺が悪かった、と言わざるを得ないケースだったりもする。しかし、プロジェクトが終わって、トータルでの評価はどうなるかというと、あの「パワー・プレイ」がなければ前に進みませんでした、という結論になることが多い。仕事が無事に終われば、リカバリーできたミスのことなど他人は覚えていないのだ。

それを積み上げていくと、あの人は取り敢えずやってくれる人だ、という評判になっていく。それは、いかにやってくれる人が少ないか、ということの裏返しだろう。

なお、「パワー・プレイ」の成果が(物量的に)見えやすいというのは、ある意味シンプルで評価につながりやすい面がある。やった仕事の量と時間でパフォーマンスにははっきりと差が出るし、無理だった場合の原因も物量と稼働時間を見れば、サボってたのか、まじめにやったができる量じゃなかったのかがだいたいわかる。そういう意味では、「パワー・プレイ」には少し残酷な面もあるかも知れない。

パワー・プレイをハックする

いくらおれが闇の「パワー・プレイ」教団の信者だからといって、年がら年中全力疾走しているわけではない。必要な時に必要なだけ「パワー・プレイ」することで、ビジネスとしての「パワー・プレイ・サービス」は最大の効率を発揮する。これは商売の視点の話だ。

「パワー・プレイ」が必要とされるシチュエーションは大きく2つぐらいに分けて考えることができる。もちろん区別は相対的なものだ。

1.物量が多い。
2.納期が短い。

このうち、単純な「物量」はどうしようもない。念じたところで仕事の量は減らないので、ひたすらやるだけだ。「物量」に対処するためには、今までどれぐらいの「パワー・プレイ」経験を積んで「真のパワー」を身に着けているかが勝負になる。一朝一夕ではどうにもならない。走りながらの柔軟な段取り変更、効率化、PC等の道具操作の巧拙等の要素もあるが、大事なのは「ペース配分」と、あと強いて言えば集中できる環境を整えることだ。ここに魔法はない。

「納期が短い」にはビジネスチャンスがある。明日までにこれを仕上げなければならない、だがもう16時だ、どうする?そのタイミングで電話を一本入れることだ、「なんかお手伝いすることありませんか?」。おれはここ数か月、この電話のタイミングだけでメシを食ってきたと言っても過言ではない。

これは、複数のタスクを同時に進めなければならないタイプのプロジェクトで発生しがちだ。メーンどころは、クライアントもリソースを配分して着実に進めているが、どうしても周辺的な仕事には、目も手も行き届かなくなってくる。そういうプロジェクトに入った場合は、全体の進捗を常時把握し、予定通りいかないだろうな、という部分に目算をつけておき、プロジェクトメンバーがだいたいどういうライフサイクルで暮らしているかを把握しておく。

すると、このタイミングで必要な作業者がいないな、という手薄な時間が発生するのが見える。パターンとしては、夕方以降とか深夜とかが手薄になることが多い(当たり前だ)。そのタイミングで、その仕事を私がやります、と申し出るわけだ。もちろん、他の時間は遊んでたり、移動してたり、家の用事をしてたり、他の仕事をしてたりする。

もっと付きっきりで伴走してあげればそういうことは起こらないのでは?それはそうだ。しかし、それには相応のコストを要求しなければならなくなるし、他の仕事とか人生とかにも悪影響が及ぶ。おれは、真昼間から映画を見に行ったり、うさんくさいブログを書いたりもしないといけないからだ。

おれはよく夜に作業をするが、その理由は、クライアントのリソースが少なくなり、作業の価値が高くなる時間帯だからだ。おれが夜に成果物を整えておくことで、翌朝、チーム本隊が作業を滞りなくスタートすることが出来る。その間、おれは昼まで2度寝をキメてたり、重役出勤をキメてたりと、わりかし自由にだらだらした時間を過ごしている。そういうからくりなのだ。

これは、おれが働く時間を自分で決められる生き方をしているという点が大きい。もちろん家族の理解も重要だ。おれが過酷(マジで)な「パワー・プレイ」を要求される現場を健康にこなせるのも、ライフスタイル全体でメリハリがあって、何より自由だから、というところはあるかも知れないな、という事は思う。

PRO中のPROじゃなくても戦える

色々言ってきたが、極論「パワー・プレイ」は気力と体力があり、仕事に集中できる環境を持っていれば、たいてい誰でもできる。

突き詰めていくと、ただの作業なので、さほど高付加価値というわけではない。ただのマンパワーの代替である。

ただそれを、足りない時間に足りないところへ「パワー」を投入するフレキシブルな「パワー・プレイ・サービス」とすることによって、そのポテンシャルはグンとあがるのだ。

インターネットのPROたちのようなハイレベルなスキルがなくても、商売はやり方次第だ。もっとも、おれは並み居るインターネットのPROたちも結構「パワー・プレイ」をしているんじゃないかという点は少しだけ疑っているのだが。

さあ、パワーを信じて前進しよう。他のことはあとで考えろ。



*1
とはいえ、未だに現場でおれより「-」と「―」と「ー」の見分けがうまいやつに出会う事はほとんどない。

*2
管理の現場同様、製造現場も人材難であり、十分な経験を有していない労働者に働いてもらわざるを得なくなってきている。今まで一回も起こったことが無いような事故がおこったりする可能性を考慮しておくべきだろう。


誠にありがたいことに、最近サポートを頂けるケースが稀にあります。メリットは特にないのですが、しいて言えばお返事は返すようにしております。