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幾度声

努力は孤独を生んだ。

誰かのために命を捧げて生きられたら、
そう思って頑張った。

たけど頑張れば頑張るだけ、
生活も、音楽も、楽しさも、
あなたは1人でも大丈夫だよね。って周りの人たちは離れていった。

本当は頑張ってもそんなに力も幸もついてないのに。

僕は見栄を張ってしまうから。虚栄。


周りが僕を必要としていないのではなくて、
僕が周りを必要としていないように見えてしまったのかもしれない。

本当はあなたといたかった。
あなたのためならなんだってする。
それが逆説的にあなたの存在意義を奪ってしまっていたのかもしれない。

僕にとっては誇らしく思っていたこの好奇心も、
本当は貧しい心を満たし、
寂しさを癒すためだけにあったのかもしれないなんて考えたりもする。

この好奇心の根源は、知らないものに溢れたこの世界に、魅了されたものであると同時に、
知らないものへの不安に対する対抗心でもあった。

知らないものがあると口を開けない気がしてしまう。

ひとりぼっちな僕は、
なおのこと人のことが分からなくなってしまう。



認知の幅はたくさんの人やものに向けての想像力の幅だと思っていた。

世界に対して優しい自分でありたかった。
美しいと思える自分でありたかった。
愛おしいもので溢れているのを感じたかった。

そのほうが最期に死ぬ場所を選ばなくてよくなる。

考えたことあるかな。
自分の最期の場所はここがいいって。

僕は、どこで死んでも愛おしいものに囲まれている、
そんな世界にしたかった。

けれど、これも僕のエゴだったし、
逆にこれが知らず知らずのうちに分断を助長していたのかもしれない。

一方的な献身性が逆に自分が頼る場所を失わせてきている。
誰かのための自分であることに自分の存在意義を見出してしまっている。

だから、誰かに頼ってしまう自分には、
大きなため息が聞こえてくる。
誰からのだろう。自分のだったかもしれない。



そして、誰かを頼ることへの抵抗感はそんな自分の邪魔なプライドやエゴだけじゃなくて、
自分の放つ言葉への不信感、
不完全性に対する嫌悪感もあった。

だからいつも大切なことを伝えようとすると言葉が詰まる。
一文じゃない、1文字先ですら見えなくなって、
急に言葉が出てこなくなる。

本当の本音を言えば、人に怒鳴ることができないのもこんな自分への嫌悪感からだろう。


こんな言葉の不完全で、幼い自分の言動が意図せず、伝わるはずもない場所伝わってしまっていたらどうしようとかも考えてしまう。

人に伝える以上、その相手はきっと目か耳か口か鼻をつかって聞いたり話したりしている。

どんな伝わり方で誰の心を傷つけてしまうか分からないそんな世界だ。

世界に愛されたくて、愛したい僕にとっては、
悔しくもその相手は一歩躊躇ってしまう生物だろう。


文字を放ち、こんな自分を悲観したい訳でもない。

人に伝えることが怖いからこうやって冷静になれる文字にして、
誰もいないところへ飛ばしてみることが一番の逃げ道だと思っている。

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