"ゲームチェンジャー"大竹洋平は長崎で再び輝きを放つ

多様なチームを渡り歩き、吸収して成長してきた大竹洋平は長崎でも再び輝きを放っている。
そんな彼の適応能力と探求心は底を知らない。

基本プロフィール

名前 大竹洋平
ポジション RMF、LMF、OMF、ST
生年月日 1989年5月20日
出身 埼玉県八潮市
身長 166cm
体重 63kg

チームキャリア

ユース経歴
1996年 - 2001年 八潮中央サッカースポーツ少年団 (八潮市立八條小学校)
2002年 - 2004年 FC東京U-15 / FC東京U-15深川(八潮市立八條中学校)
2005年 - 2007年 FC東京U-18 (埼玉県立八潮高等学校)

プロ経歴
2008年 - 2013年 FC東京
2011年8月 - 同年12月 セレッソ大阪 (期限付き移籍)
2013年8月 - 同年12月 湘南ベルマーレ (期限付き移籍)
2014年 - 2016年 湘南ベルマーレ
2017年 - 2018年 ファジアーノ岡山
2019年 - V・ファーレン長崎

サッカー少年大竹洋平誕生

 3歳からサッカーを始める。小学生の頃から中村俊輔に憧れプレーを研究し、同選手に似たプレースタイルやキックフォームを見せるようになる。関東トレセンに選出された際にFC東京から評価され、2002年から同クラブの下部組織に入った。当時は全てのPKを任されていた。2007年のJリーグユース選手権大会では5得点を挙げ、攻撃の起点としてチームの優勝に貢献した。同期には岡山所属の椋原健太、廣永遼太郎、丸山祐市、田端信成、岡田翔平、鹿児島所属の田中奏一、松本所属の宮阪政樹、井澤惇、加藤淳也などがいた。

 2008年に椋原、廣永と共にトップチームに昇格。積極的に好機を演出してアピールに成功し、同年3月8日の開幕戦神戸戦(自身の高校卒業式当日)でプロデビュー。4月19日のJ1第7節川崎戦においてプロ初得点をループシュートで決めると、同月21日にU-23日本代表候補に追加招集され、反町康治オリンピック代表監督から「ゲームの流れを変えられる選手。たぐいまれな個性がある」と評されるなど注目を集めた。以後、オフ・ザ・ボールの動きを試行錯誤し苦しんだが、J1第24節大宮戦でフリーキックでの得点を決めるなど、チーム3位タイの4得点を挙げ存在感を示した。
2009年、クラブ首脳陣からの厚い期待を受けて4年契約を締結。背番号もリオネル・メッシに因んで「30」から「19」へ変更。しかし同年は対戦相手に得意の左足が封じられると、城福浩監督からも「さらなる成長がないと、この壁は越えられない」と厳しい評価を下され、出場機会が激減。得点も3月29日のナビスコカップ予選リーグ第2節・神戸戦での1得点にとどまった。また、この年からJリーグ選手協会(日本プロサッカー選手会)の副支部長を務めている。

与えられた期待と”ライバル”田邉草民の存在 

2010年、5月22日のナビスコカップ予選リーグ第3節新潟戦で14か月ぶりとなる得点を決める。相手GKのタイミングをずらしてのシュートに、城福監督から「指導者が指導できない発想で点を取ってくれた」と称えられた。同年9月のJ1第24節からは城福に替わり大熊清監督が指揮を執ったが、怪我人の復帰に伴うメンバー再編や、FWのリカルジーニョが大竹と同じ攻撃的MFにポジションを変えたことなどから、大熊就任以降のリーグ戦での出場は3試合にとどまった。しかし、控え組主体で臨んだ天皇杯4回戦千葉戦では2得点の活躍。「最後まで(フル出場しても)運動量が落ちなかった」「自分に自信をもってプレーできている」と成長を実感。大熊は2011年の指揮を執るにあたって「狭いところでパスを出せる田邉草民と大竹洋平をホントに鍛え、戦力にしたい」と名指して期待を示したが、田邉が出場機会を増やす一方で大竹は途中出場が続いた。

度重なるケガと移籍

 2011年8月、攻撃的MF補強を急務としていたセレッソ大阪へ期限付き移籍。レヴィー・クルピ監督からはキープ力や組み立て、シュート、ゴール前への飛び込みなどで高評価を受けており、自身初出場となったAFCチャンピオンズリーグでは鮮やかな連携を見せたものの出場機会は乏しく、シーズン終了をもってFC東京へ復帰。
2012年も控えからのスタートとなったが、バイタルエリアで違いを作れる選手として4月17日のACL・北京国安戦で先発出場の機会を掴み、1得点を挙げる活躍を見せた。主力として定着しつつあったが、同月末の練習中に負傷。後に左前十字靱帯及び左膝内側半月板の損傷と診断され戦線から離脱。2013年夏場にかけて復調しつつあった。

 2013年8月にリーグ戦ベンチ入りを果たし、同月、中学生時に関東トレセンで指導を受けたチョウ・キジェが率いる湘南ベルマーレへ期限付き移籍。高い技術を発揮して早々にチームにフィット。相手の隙を突く巧みなパスやプレースキックで決定機を演出し、攻撃を勢い付けた。同年11月の練習試合中に右膝前十字靭帯を断裂し長期離脱を強いられた。2014年より湘南へ完全移籍。同年8月、J2第27節栃木戦で復帰。2015年はシャドーの位置から攻撃の起点となり、味方の走力を活かした。湘南に在籍した3年半の間に自身に足りなかったという走力と球際で戦う意識を向上させた。

 FC東京でも指導を受けた恩師である長澤徹監督から声がかかり、2017年にファジアーノ岡山へ完全移籍。チームでは希少な創造性を有する選手として得点に絡んだ。

 2018年12月、2019年シーズンよりV・ファーレン長崎に完全移籍で加入することが発表された。


創造性豊かな左足

 各チームでプレースキッカー(コーナーキックやを蹴る人)を務めてきたことからわかるように左足の精度は非常に高い。ゴールに繋がる、直結するようなコーナーキックやフリーキックを蹴ることができ、大竹洋平という存在が相手DFラインにファールをしないようにという意識を植え付け、バイタルエリアで厳しくプレスにいけないという状況さえ作れてしまう。
 大竹は右サイドから利き足の左足でボールを触りながら、内側に視野を取ることを基本スタンスとしている。V・ファーレン長崎は4-4-2を基本布陣としていて、大竹は右サイドハーフで出場することが多い。4-4-2ではトップ下がいない。そしてサイドバックが攻撃的でオーバーラップを精力的におこなうので、大竹はサイドに開くというよりはタイミングをみて中へ入っていき狭いスペースであるがトップ下のような中間ポジションでボールを受け、そこからのスルーパスや対角へのクロスボールを得意としている。大竹は岡山時代もそうだが、チームの攻撃にアクセントを加えることができ、相手からは掴みにくいプレーヤーとして存在感を放っている。

欠点と言われがちな守備能力は標準装備

 前述したようにテクニックや一瞬のひらめきにを駆使し、チームの攻撃を担う選手には守備を苦手としている選手はめずらしくない。しかし、大竹には攻撃的MFの選手の中では守備を苦にしない選手だ。考えられる要因としては、湘南ベルマーレに期限付き移籍をしたことだ。曹貴裁監督が指揮する湘南ベルマーレというチームは、「よく走り、球際で激しく戦い、縦に速いスタイル」=湘南スタイルを施行する。そんな湘南で試合に出続けたことでプレーの強度だけでなく、守備戦術の理解の向上や運動量の増加に大きな影響を与えた。守備も計算できる”ファンタジスタ”大竹洋平が完成されたのだ。


終わりに

 30歳というのはベテランといえる年齢だ。様々なチームでプレーしてきたことで色々な経験を積んできた。その貴重な経験値を若手に還元していく段階に差し掛かっているのではないだろうか。もちろんプレーの輝きはまだ失っていないのだが。オン・ザ・ピッチでもオフ・ザ・ピッチでもV・ファーレン長崎を引っ張り続けてほしい。

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