「エモい」と「あはれなり」-感情の連続性-
近年頻繁に耳にするようになった「エモい」という言葉。Wikipediaには以下のように掲載されている。
要は、「なんとも形容しがたい素敵な感情」を表す便利な言葉である。
春に河原の夜桜が舞っているのを見た時。ほたるの光を見た夏。秋風に揺られる紅葉を見た時。白い息が出る冬の朝。音楽を聴いて感傷に浸る静かな夜。友達や恋人と過ごす何気ない日常にふと感じる幸せ。
そのどれもは「エモい」と表現出来る。
「暑い」「痛い」「辛い」などといった用途が決まった抽象度の低い言葉と違って、「ヤバい」「エグい」など、抽象的かつ多様な感情を幅広く表す言葉が増えたような気がする。
今からおよそ1000年前。かの清少納言は「枕草子」を執筆した。
四季折々の情景の趣を繊細かつユニークな視点で綴った、いわゆる「をかし」の文学である。
春には一般的に、桜など花や陽気な気候に関心が向かうところ、彼女は明け方の日が昇る山際の情景が「をかし」なのだと綴った。夏には蛍だけでなく、梅雨の雨を。秋には紅葉ではなく飛んでゆく鳥を。冬には火を起こすバタバタ感を。
これらを彼女は「をかし」「あはれなり」という感情で表現した。
清少納言は、「をかし」「あはれなり」と感じた時、上記の辞書的意味のうちどれを思って使ったのだろうか。
おそらく全てが当てはまり、全てが当てはまらないのだらう。感情には端っこ(margin)がなく、常に連続性と不可分性をもっている。「あはれなり」はプラスの意味も、マイナスの意味も含む非常に幅の広い言葉である。そしてそれは決して明確に線引きできるものではない。
「をかし」や「あはれなり」といった単語は現代語に代替可能なものがなく昨今まで来てしまった。
学校では、「しみじみとして趣がある」といつ訳語が当てられることが多い。ただ、これを読んでいる皆さんもそうであるように、現代において「しみじみとして趣がある」なんて表現は使われない。
桜を見て「綺麗だね」とは言っても、「しみじみとして趣があるね」とは言わないのだ。(もし言う人がいたらごめんなさい)
ただ、日本人がこれほど桜に惹かれるのは、おそらく「綺麗だから」だけではないはず。春の陽気な気候の中、新生活の始まりと共に咲き、儚く散っていく。そういう所を含めての桜であり、それは決して「綺麗」だけで片付けられる感情ではない。
そこには、「綺麗」という言葉に連続する別の感情が隠れている。それが新生活に思いを馳せるワクワク感なのか、すぐに散ってしまうが故の儚さ、寂しさなのか、過去の思い出と結びついたものなのかは分からない。人それぞれだと思う。
そうした感情の連続性を一語で表したものが「をかし」であり「あはれなり」なのである。
言葉は感情を作る。特定の人に対する嫉妬心は、「恋」と名付けられた途端に鮮明になる。
言葉が失われれば、感情が失われると言っても良い。この世に「恋」や「愛」という言葉がなければどうなっていただろうか。
ただ、日本人には「をかし」そして「あはれなり」という感情は、桜の例をとってしても、非言語レベルで根付いていたと言っても良いだろう。それゆえの「エモい」である。不可分な感情を連続性を持たせた言葉で表現する。適切な感情表現ではないだろうか。
「エモい」という感情は日本人の古来の感情に息づいた、日本の趣を表すのには必要かつ適切な言葉だと強く感じる。「エモい」という言葉は現代版「をかし」「あはれなり」だ。
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