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子どもを一人にしておくのは良くないという時代に

あの人は誰か?

 埼玉県で、子どもを放置する行為が虐待であるとする条例案が断念の動きとなった。
 なぜこの条例案が通ると思ったのかは疑問である。
 とはいえ、子どもを放置しておいてはいけないという発想自体には賛成である。

 かつて、地域コミュニティがあった時代。
 もっと分かりやすく言えば、隣近所の人たちのことを誰もが知っていて、町内会が機能していたような時代。その頃であれば、これは条例案に挙げることすら考えられなかっただろう。
 いま家の前を歩いてるのは田中さんの娘で妹のほうだとか、公園で遊んでるのが鈴木さんの長男と城田さんの一番下の子だとか、副島さんの家は共働きだから長男の子が一人で留守番しているとか、そういう情報が近隣によく知れ渡っていた時代。
 同時に、西野さんのお父さんは銀行の人だとか、牛島さんのお母さんは国語の先生だとか、そういう情報もよく知れ渡っていた時代。
 実は、安全だったのだ。
 何故か。
 みんな知っているからだ。だから、少しでもおかしなことが起これば、不可思議なことがあれば、すぐに知れ渡る。
 先ほどの福島さんの家の玄関前に、見知らぬ大人が立っていたら、付近の人はおかしいと気付く。あれは誰だ、知らない人がいるぞ、と。もしその人物が家へ入ろうとしたら、それを見た人は慌てて止めるだろう。お前は誰だ、と。
 ところが現在、隣の人の玄関前に立っている人が、その家の人なのかすら知らなくても、不思議ではない。入って行こうとしても、家の人なのか、何かの営業の人なのか。疑問にすら感じないかも知れない。
 不審者を発見しやすい時代は、かつてあった。

子どもを一人にしておくこと

 子どもがひとりで買い物をしたり、留守番をしても、不思議に思わないのは日本では当たり前のことだが、欧米では当たり前ではない。
 かつて、子どもが初めてのおつかいをするという日本の番組が放送された時、とある外国人が虐待だとクレームを入れたことがある。その人によれば、子どもがひとりで街中を歩いて買い物に出るというのは危険極まりない行為で、その行為は虐待に値する、と。
 日本に住んでいる、一般的な日本人からすれば、何を言ってるのか分からないというのが正直な感想だろう。
 だが、欧米ではそうではない。
 ひとりで出歩いていたら誘拐される危険性がある。実際、スーパーで買い物をしていた時に、一瞬だけ目を離した隙に子どもが連れ去られ、周りの人たちが誘拐犯を取り押さえてくれたおかげで事なきを得たという事件があった。その様子は、たまたま客が撮った動画がSNSに挙げられていた。他の国ではごく普通に起きる出来事なのだ。日本は、昨今の治安の乱れが指摘されることがあるが、外国人が想像も出来ないほど高いレベルで治安が安定している国なのである。先ほどの動画も、日本での反応は「誘拐なんて信じられない」、「外国は怖い」といったものが多かった印象だが、他の国の人たちの反応には「親は何をしていたんだ」、「目を離すなんて信じられない」といったものが散見された。感覚がまるで違うのだ。
 子どもがひとりで買い物に出るというのは、他の国の人から見れば、いつ誘拐されてもおかしくない。あるいは、命を奪われる危険性もある。そんな状況に放り込むなんて、信じられない行為である。
 子どもを敢えて危険にさらすような、虐待行為と勘違いされても仕方ない。

条例案が通らない理由について

 日本が、子どもをひとりにしておくことに何ら危険性を感じないほど治安の良い国であったとはいえ、今は外国人も多く、軽微な犯罪も日常茶飯事と言えるような時代になっている。
 誘拐や虐待がまったく無かったわけではないが、表に出るようなことは無かった。それが良かったかどうかは、今回の話からはズレるので割愛する。
 SNSの普及だけが原因というわけではないが、日本にも治安が悪い地域があったり、虐待のような行為が行われていることが可視化され、指摘されるようになった。
 まして、移民を受け入れるようになると、犯罪は確実に増加する。これは欧米諸国で移民による犯罪が頻発しており、政府がいつも頭を抱える事案になっていることからも伺える。スーパーで子どもが誘拐されるような事件は、もはや他人事ではないのだ。
 それを考えると、埼玉県での虐待禁止条例案が通らなかった理由が分からなくなる。
 日本がまだ治安の高さを維持していて、それに甘んじており、危機意識が欠落しているからだとも言えるが、もっと単純な理由が考えつく。


1.そもそも、安心だった時代には何があったのか
2.欧米ではどうしているのか


 たとえば、今回の条例案でおかしいなと感じたもののひとつが「子どもと高校生の兄弟が自宅で留守番」も虐待に値するとした点である。
 乳幼児だけならまだしも、高校生にもなる子がいても駄目となると、どうすればいいのか。父親は外で働き、母親は家事を務めるような時代ならともかく、両親ともに働くのが当たり前となった現代では、これは無理難題といえる。働くのを止めろと言うつもりなのかと、反発を招いても仕方ない。
 欧米ではベビーシッターやホームキーパーを雇うことで、家に子どもだけしかいない事態は減らそうとしている(ベビーシッターによる虐待や、ホームキーパーによる窃盗という別の問題も起きてはいるが)。
 しかし日本にはまだ、その習慣はほとんど広まっていない。難しいと言える。

 他にも「子どもだけの集団下校」を虐待とした点も、そぐわない。
 アメリカではスクールバスがあり、親は停留所まで子どもと一緒に行って、乗るまで確認するのが当たり前とされている。そんな人たちから見れば、子どもだけで登下校するのは危険にさらされていると思っても、致し方ない。
 しかし、日本にも子どもたちを守る仕組みはあったのだ。
 「みどりのおばさん」と呼ばれる人たちが、横断歩道や鉄道の遮断機を渡るときに誘導してくれる。登校時に母親たちが交替で同行する地域もあった。あるいは定年退職して安泰に暮らしている隠居老人たちが、子どもたちの登下校を見守っている。そんな時代を知る人たちからすれば、スクールバスを出したり、みどりのおばさんだけでなくおじさんも含め、みんなで見守ればいいのではないかと思っても、おかしくはない。


 条例案が支持されなかったのは、日本の仕組みにそぐわなかっただけではないと思う。
 最も反感を買ったのは、主張ばかりが先行しているからだろう。それは極端と映る。「虐待とみなし」、「罰則を科す」だけで、治安の維持や地域コミュニティの復活をまったく掲げていない、その先の未来を考えていないからだと思われる。
 たとえば、子どもをひとりきりにするのは危険です。共働きになってホームキーパーも普及していない日本では、ひとりきりにしてはいけないと言われても難しいでしょう。代わりに、安全策を講じます。支援しますとなれば、まだ良かっただろう。
 ここから先は政治家の職務になるが、スクールバスへの扶助でも、ホームキーパー支援策でもいい。あるいは定年退職後の老齢者に、地域を見回る職務と報酬とを与えることで治安の維持を図るようにしてもいいし、集団登下校のルートにカメラを設置してもいいだろう。これは費用対効果(使う費用に対してどれだけの効果があるかを考える)を考慮すべきではない、公的機関でなければ実行しえない。
 治安悪化の対策も急務だが、今回は子どもの安全面のみを考えて、思いつくまま書いてみた。
 昔の日本の、悪い部分は排除すべきだが、良い部分は残さなくてはいけないのだ。

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