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間違い電話のその向こう

真夏の午後、
不動産会社「誠実ホーム」の事務所に一本の電話が鳴り響いた。
受話器を取ったのは、新入社員の藤井美咲だった。
「はい、誠実ホームでございます」
電話の向こうから、老婆の声が聞こえてきた。
「もしもし、千絵?お母さんよ」
美咲は一瞬戸惑ったが、すぐに仕事モードで返答した。
「申し訳ありません。こちらは不動産会社です。お間違えのようです」
「え?違うの?でも、この番号」
老婆の声は混乱していた。
美咲は優しく説明した。
「はい、番号が似ているのかもしれません。
どうぞお掛け直しにお気をつけくださいませ。」
受話器を置いた美咲は、今の電話の違和感を飲み込めないでいた。
老婆の声には寂しさが滲んでいたと感じたからだ。
「何か気になるなぁ」

それから数日後、再び同じ老婆から電話がかかってきた。
今度は同僚の栗谷が対応した。
「はい、誠実ホームです」
「あら、また間違えちゃったわね。ごめんなさい」
老婆は電話の向こうで肩をすくめている様子で謝罪した。
栗谷は苦笑いしながら電話を切った。
「また例の老婆か。最近よくかかってくるな」
美咲は尋ねた。
「何回くらいあったんですか?」
「ここ2週間で5回目だよ。きっと認知症が進んでいるんだろうな」
栗谷は軽く答えた。
その言葉は、美咲の胸にわだかまりを残した。

翌日、美咲は上司の佐久間に相談した。
「あのおばあさん、心配なんです。
何か私たちにできることはないでしょうか」
佐久間は腕を組んで考え込んだ。
「そうだな…不動産会社として何かできるかもしれない。
ちょっと調べてみよう」

その日の夕方、田中は美咲を呼んだ。
「藤井さん、あの老婆の住所がわかったよ。
近くのマンションに住んでいるらしい。
明日、様子を見に行ってくれないか」
美咲は喜んで受け入れた。

翌日、美咲は団地を訪れた。
208号室のドアをノックすると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「はーい、どちら様?」
ドアが開くと、小柄な老婆が立っていた。
美咲は丁寧に挨拶した。
「はじめまして。誠実ホームの藤井と申します。
お電話を何度かいただいておりまして…」
老婆の顔が明るくなった。
「ああ、あの不動産会社の方ね。わざわざすみません」
部屋に招き入れられた美咲は、老婆の生活環境を確認した。
老婆は一人暮らしだった。
部屋は整理整頓されているものの、至る所に娘の写真が飾られている。
「お嬢様のお写真ですか?」
美咲が尋ねると、老婆の表情が曇った。
「ええ、5年前に亡くなったの。
それ以来、私、ときどき混乱してしまって…」
美咲は老婆の手を優しく握った。
「大丈夫ですよ。これからは私たちがお手伝いします」
その日から、誠実ホームは老婆の生活支援を始めた。
電話の取り次ぎサービスを提供し、定期的に訪問して様子を確認した。
老婆の生活は徐々に安定していき、間違い電話も減っていった。

半年後、老婆は穏やかな笑顔で美咲に告げた。
「あなたたち、本当に娘のようね。ありがとう」
美咲は嬉しさで胸が溢れた。
老婆の発言を反芻したその瞬間、老婆の表現が喉をつかえた。
「娘のよう、に?」

突然、はじかれたように立ち上がり、老婆の家を後にした
「ちょっと気になることがあって、ちょっと今日は失礼します」
「あら、そう?また来てくださいね」
美咲は慌てて事務所に戻り、会社の古い書類を調べ始めた。

驚いた。
誠実ホームは5年前に創業した新設の会社だ。
それに伴い誠実ホームの電話番号は、5年前に取得されたものだった。
以前の電話番号は、同じ市内の住所に登録されていた。
そして、その電話番号の主は誠実ホームの顧客だった。
登録されていた顧客の苗字は、老婆と同じものだ。
つまり、誠実ホームの電話番号は
老婆の亡くなった娘のご自宅の電話番号だったのだ。

美咲は震える手で老婆に電話をかけた。
「もしもし、私です。実は」
話を聞いた老婆は、しばらく沈黙し、次第にポツリポツリと話し始めた。
「そうだったの。
だから、あの番号に電話すると、いつも優しい声が聞こえたのね。」

間違い電話が紡いだ不思議な縁は、老婆に新たな喜びをもたらした。
また美咲は、顧客に向き合うその誠実な姿勢は、
その後長く続く彼女の人生の強みと誇りとなるのであった。

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