かつ丼インザストーム
雨粒が窓を叩く音が、由美の耳に響いた。
彼女は携帯電話の画面を見つめ、ため息をついた。
気象庁から発令された暴風警報が、赤い文字で点滅している。
「またか...」由美は呟いた。
この1ヶ月、週末になるたびに悪天候に見舞われていた。
今日も例外ではない。
由美は窓の外を見やり、激しく揺れる木々を眺めた。
彼女の胃袋が昼食の時間だと告げている。
冷蔵庫を開けると、中身はほぼ空っぽだった。
スーパーに行くのは論外だ。
この天気では外出すらできない。
由美は携帯電話を手に取り、デリバリーアプリを開いた。
スクロールしていると、目に飛び込んできたのは
「嵐の日特別サービス!かつ丼半額!」という広告だった。
「かつ丼、か...」由美は少し躊躇した。
普段なら避けるような高カロリーな食事だが、
この非日常的な状況下では許されるかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、注文ボタンを押した。
30分後、ドアベルが鳴った。
由美は驚いた。こんな悪天候の中、こんな早く届けてくれるとは。
ドアを開けると、びしょ濡れの配達員が立っていた。
彼は震える手で、保温バッグからかつ丼を取り出した。
「お待たせしました。お気をつけてお召し上がりください」
由美は思わず声を上げそうになった。
配達員の顔には大きな傷跡があり、
左目が失明しているようだった。
しかし、彼の笑顔は温かく、誠実さが感じられた。
「ありがとうございます。こんな天気の中、本当に申し訳ありません」
由美は心からの感謝を込めて言った。
配達員は軽く会釈し、再び雨の中へ消えていった。
由美はかつ丼の蓋を開けた。
香ばしい匂いが部屋中に広がり、彼女の空腹を更に刺激した。
しかし、箸を持った瞬間、由美は違和感を覚えた。
かつ丼の蓋に、小さな紙切れが張り付いていたのだ。
好奇心に駆られ、由美はそれを取り出した。
紙には走り書きで「助けて」と書かれていた。
由美の心臓が高鳴った。
これは悪質なイタズラか。
それとも本当に誰かが助けを求めているのか。
彼女は躊躇しながらも、警察に電話をすることにした。
「はい、110番です。どうされましたか?」
由美は状況を説明した。
デリバリーで届いたかつ丼の中に、
助けを求める紙切れが入っていたこと。
配達員の特徴的な外見のこと。
警察は真剣に話を聞き、すぐに調査を始めると約束した。
その夜、由美は眠れなかった。
窓の外では相変わらず雨が降り続けている。
彼女の頭の中では、様々な可能性が駆け巡っていた。
翌朝、由美が目を覚ますと、暴風警報は解除されていた。
彼女がカーテンを開けると、久しぶりの青空が広がっていた。
由美の携帯電話が鳴った。
警察からだった。
「昨日の件ですが、重大な事件に繋がる可能性があります。
急ぎで一度、署まで来ていただけますか?」
由美は急いで支度をし、警察署へ向かった。
到着すると、深刻な表情の刑事が彼女を待っていた。
「あのかつ丼店のことは、長年怪しんでいました。
理由は、人身売買や強制労働の噂です。
しかし、証拠がなく、捜査は難航していました。」
刑事は続けた。
「あなたの通報のおかげで、ようやく突破口が開けました。
店舗の家宅捜索を行い、
複数の外国人労働者が劣悪な環境で働かされていたことが判明しました」
由美は言葉を失った。
まさか自分の行動が、こんな大きな事件の解決に繋がるとは。
刑事は少し言葉を選びながら続けた。
「あなたが教えてくれた配達員、彼も被害者の一人でした。
彼の勇気ある行動が、多くの人々を救ったのです」
あの時の配達員の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
彼は自分の命を危険にさらしてまで、助けを求めたのだ。
数週間後、由美はニュースで事件の詳細を知った。
警察の捜査により、
かつ丼店の経営者が逮捕され、多くの被害者が救出されたという。
店の名前が明かされた。
「嵐見屋」
由美は息を呑んだ。
突如、1ヶ月前の記憶が蘇った。
友人と話していた時のことだ。
「由美、知ってる?この辺りにすごく美味しいかつ丼屋があるんだって。
確か...嵐見屋っていう店」
「へー、そうなんだ。今度行ってみようかな」
「でも、なんか怪しい噂もあるみたいだよ。従業員の待遇が悪いとか...」
「まあ、うわさは気にしない方がいいんじゃない?」
由美は当時、その会話を軽く流していた。
まさか、今回の事件に繋がるとは。
二度とこのような悲劇を見過ごさない。
たとえ小さな違和感でも、勇気を持って声を上げる。
それが、社会を変える第一歩になるのだと。
窓の外は、新たな雨粒が落ち始めていた。
今回は、由美の心に暗い影を落とすことはない。
この雨が全てを洗い流し、
新たな始まりをもたらすことに、彼女は気付いていた。
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