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たたき台から優れた結論を導くために、気をつけるべきこととは何か

「お前はスタンスを強く示しすぎるから、客前に出すのは怖い」
証券会社で顧客へビューを語りはじめた頃に、セールスのMDからモーニングコール(証券会社で朝、アナリストからセールスに今日のマーケットの注目ポイントを挙げるミーティング)のときにそういわれた。

しかし、実際にそのセールスの方が入れてくれたミーティングのあとの投資家からのフィードバックは良好だったようで、後日そのセールスのMDから「やっぱ大丈夫だったわ、顧客とのミーティングいれるからよろしく!」と言ってもらえた。

投資家からのフィードバックが良好だった理由について、自分なりに振り返り、そのポイントを抽出すると、4点で僕のその”スタンス”に良さがあったのではないかとの結論に至った。

それは証券会社だからこそということはなく、一般的なビジネスパーソンの社内における議論でも、学生の就職活動の面接でも活かせる、普遍的なものだと、今WACULというスタートアップにおいて働く中でも感じたので、以下にしたためる。もちろん多くの優秀なビジネスパーソンは行っていることだと思うので、本稿の対象は学生や若手などのレベルの内容である。

スタンスを“たたき台”として示すことで議論がうまれる

世の中のほほすべての人は、叩かれるのが嫌いなくせに叩くのは好きだ。後出しじゃんけんも好きだ。当然だ。そのほうが優位だからだ。これはもう人類における習性に近いものだと思う。

例えば、機関投資家は自分の手口(投資している先や投資検討先)について、社外の人に知られたくないという気持ちがある。自分の手口がバレれば、それを前提に他社が先回りして動くことがあるからだ。だから基本的に自らペラペラと自分の考えを述べたりはしない。

一方、違う側面からみると、人は叩くものを提示されれば、ついつい叩いてしまう。叩く過程で自分のスタンスを示してしまう。機関投資家でも、自分がコッソリと良いと思っている銘柄について、もしセルサイドアナリストがけちょんけちょんに言っていると「そんなことはない!あの銘柄は良い!」とちょっと反論してしまったりする。

また、社内のミーティングで議論が活性化しないケースでは、「総論賛成・各論反対」で議論が深まらないケースが多いように思う。「会社をよくしよう!」と言ったところで誰も反対はしないが、「そのために毎月飲み会をしよう!」と言うと、きっと反対意見がでるだろう。

「マクドナルド理論」などと呼ばれるものがある。「ランチどこにいこうか」と仲間うちで悩んだ時、あえて「マクドナルドに行こう」と言えば、「そうじゃなくて、◯◯はどう?」と議論が活性化する、というものだ。

このように、まず自らがスタンスを示し、“たたき台”を提供することが、議論を活性化するための第一歩となる。議論ができないと嘆く前に、ぜひあなたのたたき台を議論の場に出してみよう。

たたき台は叩かれるものと割り切る。議論の参加者は、たたき台は叩いても起案者個人は叩かない

たたき台はまわりの人が叩くもの。つまり起案者からすれば、叩かれ台であることを覚悟しておけばよい。だから、そのたたき台が叩かれることを気にしてはいけない。

と同時に、議論参加者である叩く側も「こんな質の低い提案をしやがって!」と、たたき台そのものでなく、たたき台の起案者個人を叩くことはしてはいけない。多くの企業において、このように「人物」と「事柄」とをちゃんと分けられないマネージャーが多いのは悲しいことだ。これは会社にとっても損害でしかない。

心理的安全性を高めるとチームの成果があがることがGoogleの調査でも出ている(Google re:Work「効果的なチームとは何か」を知る)。「たたき台」を出してくれるファーストペンギンたる起案者の、心理的安全性を守ることがとても大切だ。

心理的安全性: 心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。

しばしば「ランチにマクドナルドなんか提案しやがって!先にまわりにヒアリングしとけ!」などと起案者を叩いてしまうと、その後にたたき台を起案するファーストペンギンが新たに生まれなくなる。行動の端緒を切る人そのものがいなくなることは組織にとって大きな損害である、と現代において理解できない人はほとんどいないと信じている。

もちろん一定程度、たたき台をつくる時点で、検討・配慮はしておく必要はある。“ジャストアイデア”と“たたき台”は違う。これは程度問題であろうが「方向性の確認」(ランチは和食か洋食か、くらい)まではしておいたほうが無難だとは思う。

たたき台は叩いて変形させるからたたき台。変形を恐れてはいけない

「叩く」という行為は、それ自体が攻撃的なため、叩く側も叩かれる側も身構えがちになる。しかし、起案者も参加者もリラックスすべきだ。ひとりの脳みそで考えられることならばひとりで考えればよい。議論をするということは、何かしらその参加者の意志や頭脳が必要だからしているはずだ。それぞれに持っている情報や経験は違うから、ちょっとしたことについて議論しても、役職の上下や担当領域の左右で何かしらのバリューは出るものだと思う。そのバリューをかき集めて、たたき台を叩いて、変形させていく。

たたき台を何か自分の芸術作品のように議論の場に出して、みんなで鑑賞するのでは意味がない。触られるだけでも嫌がる人がいたりするが、何をしたいのか分からない。自己満足のために人に見せたいだけなら誰も呼んでほしくないに違いない。

たたき台は叩かれて変形させることが大前提だ。だからたたき台と呼ぶのだ。たたき台が変形させられることを恐れてはいけない。

議論に勝とうとする人はすでに負けている。よい答えを出すというゴールを見失わない

議論に勝ちたくて仕方のない人がいる。ディベートのゲームと勘違いしたり、持論をどうにか押し通そうとする人がいる。しかし、それは自分のエゴであり、組織として正しいことではない。

議論はあくまで深まればよく、その結果として正しいと参加者が信じられる結論にたどり着くことが重要である。参加者が腹落ちしない”結論”に従って推し進められる施策ほど、失敗するのは多くの人が感じるところだろう。

コンサル時代にケース面接という“議論”を行った時によくいる悪いケースが「自説を曲げない人」だ。ケース面接で例えば「あなたの知っている靴屋について教えてください。そこのひと月の売上を推計してください」などと前提条件を整理したあとに「それを2倍にする方法を教えてください」と言って議論に入る。

こちらは基本的には説明を聞きながら、ロジックエラーやほかの目線からで明らかにおかしい点などを指摘してつぶしていきながら議論を進めるのだけれど、「この点が欠けていてそれではMECEではないですよね」などとロジックエラーを指摘しても「いや、そんなことないです、大丈夫です!」「いや、でも例えばこういうケースも普通にあると思うので…」「僕のイメージしている店舗ではそういったことは起きないんで考慮しなくてよいんです!」と苦しい言い訳を重ねだす候補者がいる。面接官との議論に勝とう勝とうとするのだ。

面接官は候補者を議論で負かそうなどとは全く考えていない。同時に議論で自らを負かしてくれた候補者を通すわけでもない。あくまで、その候補者とチームとして働くときを想像して、最終的な解にたどり着くためのプロジェクトで一緒に課題に取り組み、その過程で議論を深められる相手かを試しているのである。

もちろん、素晴らしいたたき台が候補者から提示された場合には、あえて無茶な論点を出して、わざと議論をわき道にそらそうとすることもある。その場合には、今の議論を深めるために不要な論点であれば、こういう理由でその論点は議論すべきではないのでは?と返してしまえばよい。

議論に勝とうとする人はすでに議論の本質的なゴールを見失っている。つまり、議論に負けているのだ。

叩かれることを恐れない起案者と、たたき台をやさしく叩く協力者が増えますように

僕自身、課題を感じることについて、それはなぜ起きているのだろう、どうすればよいだろうと考えて持っていくのだが、それで困った場合には、しっかりとしたたたき台にまで至らずに、生煮えのままで経営会議に出すことがある。そうすると、まわりの経営陣や執行役員がどんどん意見をくれ、生煮えの僕の課題感と対応策がブラッシュアップされていく。その結果、その課題感そのものが棄却されることもあるのだけれど、それでよいと割り切っている。優秀な頭脳を何個か集めて議論してそうなるのであればきっとそうなんだろうと信じている。

同様に、いろんな組織で、多くの起案者が僕のように、叩かれることを恐れずにたたき台を出せて、そしてそれを協力者がやさしく叩き、みんなで素晴らしい結論という構造物を形作れる、そんな建設的な議論が社会に増えるといいなと思う。


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