コロナに関する真実を語ろう。

さて、つい先日、ネットの配信で、
立憲民主党の小川淳也衆議院議員が、地元高松で開催した
青空対話集会を観ていて感じたことがあります。

コロナに関することです。

今日はそのことについて皆さんと一緒に考えたいと思います。

まず、その青空対話集会で何があったかを共有したいのですが、
青空対話集会というのは、先述の小川淳也議員が、
市井の人々の生の声を聞くために開いているオープンな集会で、
国政報告とか、ちょっとした演説をしたあとは、
参加している一般市民から意見を聞き、その場で答える、
という主旨のイベントです。

で、そこで二人の若い女性がコロナについて
小川議員に意見をぶつけました。
お二人ともお子さんがいらっしゃり、片方の方は妊婦さんです。

先に発言された方の意見は、
「いつまでコロナを大ごとにしているのか、
子供たちは学校で黙食で可哀想だ」
というご意見でした。

もうお一方は最後の方に発言されていた妊婦さんで、
「妊婦の立場からすると、やはりコロナはとても怖く、
 社会の警戒心がどんどん緩んでいく方向を危惧している」
というご意見でした。

正反対の意見です。
小川さんは「今は過渡期である」ということを伝え、
政治家としてそのときどきで相矛盾することを言う場面があることを
了承して欲しいと理解を求めました。

コロナに関して、ネット上では相変わらず様々な意見が飛び交っています。
大きく分ければ、「それほど気にすることはない」というものと、
「ちゃんと警戒すべきだ」という意見だと思います。

言い方はいろいろあると思いますが、方向性としてはその二つ。

で、それぞれの方向に対して専門家や識者という人もいて、
それらの人は「自分の意見が正しい」という言い方をしますね。

それらの情報を受け止める市民の側はどうか、というと、
やはり自分の意見に近い意見というものに賛同し、
それとちがうものには反対する、という態度が大部分でしょう。

自分とちがう意見をきいて「へぇ、そうなんだ」と考え直す人は
少ないのではないかな、と想像します。
これはコロナに限らない話で、
ネットの世界で顕著になった傾向として語られるものですね。

では、先ほどの二人のお母さんのそれぞれの意見は、
どっちが正しくて、どっちに合わせるべきでしょうか?
あなたはどう思いますか?

これは私の意見ですが、
やはりコロナの現実をしっかり捉えるべきだと思います。
それはコロナウイルスの性質や、罹患した場合の症状や、
あるいは死ぬ人の割合や絶対数などという個別のことではなく、
「コロナ禍」という現象の全体像を現実として捉えるということです。

どういうことか。

まず、専門家でさえ様々な意見がある。
対象となるコロナウイルスそのものがどんどん変化していくものである。
だから「絶対に正しいという答えがない」という現実がある。

そしてコロナに罹患した場合の症状についても、
罹っても平気な人もいれば死んでしまう人もいるという現実がある。

そういうことですね。それらを総合的に考えるということです。
もちろん、自分の意見はあっていいのです。
しかし、自分とはちがう意見も存在していて、
それはどちらが正しいということではない、
という事実をまず把握すべき、ということです。

例えば「コロナはもはや大したことではない」という意見があります。
この意見は、恐らく死亡率の低さを根拠にしているのではないでしょうか。

でも、この疫学的な数字というものの捉え方は、
みなさん、ちゃんと正しいものでしょうかね?
私はそこについては指摘したいのです。
数字の意味をちゃんと自分ごと化する、という意味においてです。

例えば、日本人の平均寿命というものがあります。
男も女も80歳を超えています。
この数字は、あなた自身が80歳以上まで生きるという意味ではないことは
おわかりだと思います。

平均寿命の意味は、殆どの日本人が80歳まで生きるとか、
80歳で死ぬという意味ではありません。
5歳で亡くなる人もいて、100歳まで生きる人もいる。
それらを全部足して人数で割ったものが平均寿命なのであって、
これはあくまでも日本人全体で結果的に弾き出した単なる数字であり、
一人ひとりの個人の生きる時間とは無関係です。

あなたが80歳まで生きるという保証はまったくない、
という意味で、ですね。
あなたが60歳で亡くなれば、あなたの人生は60年だし、
あなたが100歳まで生きれば、あなたの人生は100年です。

どちらの場合も、平均寿命というこの数字は
あなたの人生の長さとは無関係であり、
あなた自身にとっては無意味です。

伝わりますかね?
あなたの寿命はあなた一人だけのものであり、
マスで捉えた数字とは何の関係もないのです。

この数字は日本の人口動態なんかを調べる学者には意味がありますが、
私たちが自分の生きる時間を語るにあたっては、完全に無意味なのです。
その事実を把握すべきです。

日本の経済政策を決めていくときに、
平均所得なんかを根拠にする場合がありますね。
例えば日本人の平均年収が400万円だったとして、
これは殆どの日本人の年収が400万円だ、という意味ではない。

あなたの年収が250万円だったら、
あくまでもあなたの年収は250万円なのであって、
平均の数字とはまったく関係がありません。

そういう解釈をする必要があります。
あなた自身はどうなのか? という視点ですね。

ではコロナの死亡率や、ワクチン接種の死亡率の話をしましょう。
仮に、コロナで死ぬ人の割合が0.1%だとしましょう。
話をわかりやすくするための数字です。

コロナ罹患者1000人のうち一人が死ぬということですね。
これはあくまでも疫学的なもので、つまり単なる統計上の数字です。

この数字の意味が、例えばあなた自身がコロナに1000回罹患したとして、
その中で死に至る可能性は1回だけだよ、という意味なのであれば、
あなたにとってコロナはそれほど恐ることはないものでしょう。

しかしこれはコロナに罹患した人1000人に対して一人が死ぬ
という意味ですから、
その一人にとっては致死率は100%という意味かもしれないのです。
そしてそれは実際に罹患してみないとわからない。
ワクチンも同じですね。

疫学上の数字というのは、
事象をマスとして捉えた時の説明用のものであって、
個人が「そんなものは恐るに足りない」と
判断する根拠にはならないのです。

でなければ、罹る人がとても希少な難病は
すべて取るに足らない病気と判断されるはずですから。

致死率100%だけど、それが誰にとってなのかはわからない、
というものだった場合、
それを「大したことではない」と言うことはできないはずですね。

ここまで、いいでしょうか?

私がここで何を言いたいのか、というと、
コロナをもっと恐れましょう、とか、コロナは怖いですよ、
ということではありません。
そうではなくて、それぞれの人に気持ちがあって、
それはそれぞれにバラバラなのだけれど、
どれが絶対的に正しいというものはないのだ、ということを
みんなで理解しておきましょう、ということです。

こういう私は、外を歩くときはマスクをしていません。
そとの空気の中では、ほとんど危険性はないだろうと思っているからです。
でも、外だからといって
目の前で思い切りくしゃみをされたりすれば嫌ですし、
電車やバスにのるとき、スーパーに入るとき、
地下鉄のホームなどという場所ではマスクをつけています。

私自身がコロナをどう捉え、どう行動するか、ということと、
他者がどう考えるべきかということを混同してはいけないのです。

怖がらない人もいれば、怖がる人もいる。
そういう事象であって、どっちが正しいかは誰にもわからないのです。

本当に誰にもわからないのですよ。これが真実です。
もちろん専門家という人はいます。重要な存在です。
でも、その人たちも絶対ではありません。
一般人よりも知識があるというだけで、この世に絶対の人は存在しません。

それだけが確定的に言える事実です。
後から歴史を振り返ったときに、様々な意見が存在し、
その中にはまちがったものもあり、正しいかったとされるものもある。
けれどそれがどれなのか、今の段階ではまったくわからないのです。

ではどうすればいいのか?

自分で考えるしかない。
そして自分とはちがう意見があることを受容するしかないのです。
もし他者の意見をなんとかしたいなら、
そのときは「対話」をするしかないのです。

対話とは、相手がなぜそう考えるのかを互いに理解するということです。
その上で「私はこう思う」という意見を理由とともに言うのが対話です。
相手が理解できるように伝え合うことです。

怖がる人がバカなわけではなく、
怖がらない人が無神経なわけでもありません。

どちらの意見もただ同等に存在している。
それだけのことです。

しかしながら、政治というのは、そんな中で
意見を決めて方針を決めて、行動しなければなりません。
必然的に、自分の思い通りにならなかった人からの批判は
「必ず」出てきます。

これまた「必ず」です。

でも、絶対に批判が出ない政策も行政もないのです。
いろんな意見があり、いろんなタイミングによって、正しさも変わる。
まるで寄せては返す波のように。

それが人間の営みであり、時間の積み重ねです。
私は人類はコロナから何かを学び取らなければならないと思っています。
そしてその中のひとつが、「高い視座を持つ」ということだと思うのです。

自分の意見ばかりに拘泥せず、他の人はどう考えているのか、
その理由はなぜなのか、というところに意識を向けるということです。
そしてこれは人間が「数字を勝手に解釈する傾向がある」
という性質が起こす陳現象なんだな、と理解することです。

それがコロナが人間社会との関わりで示す真実ではないでしょうか。
コロナは「他者を理解するスキルとはなんなのか」を教えているのです。

それぞれの領域の学者は、ただベストを尽くすしかないのでしょう。
間違っていたかどうかは、今はわからないのですから。
市民も同じですね。あっちを立てればこちらは立たないのですから。

ただみんなで真剣に考えて、
お互いに傾聴しながら対話するしかないのです。
これがコロナの真実ではないでしょうかね。

最初の質問の、二人のお母さんのそれぞれの意見は、
どっちが正しくて、どっちに合わせるべきでしょうか?

私の意見は、皆が人間や社会の不確実性を受け入れて、
都度、頑張って対応するしかない。です。

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