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ネット上の誹謗中傷に関する所見。

タレント・ryuchell(りゅうちぇる)さんの自死に関して、
深く知るわけでもない人間があれこれ言うのは良くないと思いつつ、
私の個人的な思考の整理として、自分なりの考えを書いてみます。

まず、今、世間一般で言われているのは、
SNSの誹謗中傷ですね。

私は自分なりにSNSとはある一定の距離を保っているので、
りゅうちぇるさんにどの程度の誹謗中傷があったのか、
把握しておりません。

ニュース記事などを少し読むと、著名人の何人かが、
SNS上での他者への誹謗中傷に対して断罪しているとのこと。

確かに対処療法としては、そのような発言も必要かと思うのですが、
では、それで本当にこの社会が良くなるのか?と思えば、
きっと効果はないでしょう。
亡くなったりゅうちぇるさんは二度と戻りませんが、
同じような犠牲者を本当に出さないようにするためには、
どのような対応が必要になるのか。

そういう視座から考えていきたいのです。

まず今回、なぜりゅうちぇるさんが多くの中傷
(これをネットスクラムと呼んでみます)を
受けることになったのか。

これをLGBTQという性的マイノリティの話に
落ち着けることももちろんできるのですが、
中傷した人間たちにはそれなりの言い分があるようです。

それは氏が性的少数者という弱者であったこととは関係がなく、
そのことを原因に「育児放棄をした」ということを
責めていた、というのです。

私は敢えて言いますが、この件の本質は、
性的マイノリティの件も、育児放棄も関係ないのです。
ただ、他者の非を大勢の人間が集中砲火し、
滅多打ちにするという現象に目を向けるべきなのです。

なぜなら、日大タックル事件を引き合いに出さずとも、
これらのようなことは
個々の正義感から他者に対して「一言、言ってやりたい」
という人間の感情が原因なのであって、
その引き金を何が引いたのか、ということは関係がない。

そこを忘れてはいけないのです。
これはメディア論であり、人間の想像力の欠如の問題であり、
究極的には社会論なのです。

なぜメディア論なのか。
それは誹謗中傷を行なった一人ひとりは、
おそらく誹謗中傷をしたという自覚がないだろうからです。

彼らは、一人の人間として、一言、言っただけなのかも知れない。
しかも今は、有名人に直接、言葉を届ける手段を
市民が手にしている時代です。

そして、その一人は、自分と同じような意見の人が、
他に100人いることまでは考えない。
少しリプ欄を見れば、「もうその意見は出ているのだから、
自分が改めて書く必要はないな」と思うかも知れないけれど、
そんなことはしないのです。

とにかく書くのですね。
これは「気が済まない」からだと思われます。
自分から一言言わなければ、気が済まない。
これは何かの謝罪会見のときの記者が、
代わる代わる同じ質問をするのと同じですね。

とにかく「自分が言う」ということに意義があるわけです。

なぜ想像力の欠如の問題なのか。

それは、一人の中傷なら、無視すればいいのかも知れないけれど、
それが100も1000もくると、
一人の生身の人間には耐えることができない、という事実を
想像する力がないのです。

あるいは、そのようなことまでは想像ができたとして、
それを悪いことだと感じる感覚が麻痺している可能性もあります。

最終的に対象となった人が自死をしてしまっても、
申し訳なかったと感じることはなく、
いい気味だとか、自業自得だと言い放つ現象は、
これまでもなんども目にしてきました。

人間という生物の進化は、
テクノロジーの進化とは比べものにならないほど遅いです。
私たちの脳や心は、原始時代とそれほど変わらない構造のまま、
スマホを使い、世界中の情報と24時間つながるという
考えられない状況が現実になっています。

現実世界の人間は、150人程度の他者としか
社会を形成できないと言われています。
それ以上の人間が存在するという状況は、
脳が処理しきれないわけですね。

では1000人から「お前はまちがっている」と
連続して言われたらどうなるでしょうか。

心が壊れます。

でも一人ひとりは、たった一言言っただけですね。
ひとつの傷はカッターナイフで皮膚をほんの少し傷つけただけでも、
1000回やれば致命傷になる。
そういうことを考える力が欠乏してしまっているのです。

なぜ社会論なのか。

そのような感覚の欠乏は、なぜ起きているのかを
考えなくてはいけないからです。

誹謗中傷する人は、なぜ誹謗中傷をするのか。
そここそを、もっとも深く考える必要があるからです。

今回の事件を通じて「生きづらい社会」という言葉が聞かれます。
それはおそらくLGBTQ当事者に対しての言葉でしょうが、
この社会はすべての人にとって生きづらいのです。
そういう社会を我々は作ってきてしまったのです。

ですから、これは誹謗した人間を擁護する意味とは
まったくちがうのですが、
私が思うに、今回、誹謗中傷している人間たちも、
この生きづらい今の社会の犠牲者なのであって、
彼らがなぜ他者を言葉の暴力に晒したいのか、といえば、
恐らく自分自身が社会から大切にされず、
存在を認めてもらっているという安心感がなく、
見向きもされず、希望もなく、未来への安心もなく、
自分の存在の重要度を感じる機会がないからだと思うのです。

お金のためだけに働き、
代わりはいくらでもいるというような社会では、
そうなって当然でしょう。

そして、誹謗中傷をした人間を非難する人もまた、
同様に他者を非難しているわけであって、
しかしまた別の時には、自分がけしからんと思った人間を
誹謗する一人になっている可能性は高いのです。

そう言う意味で、今回はすべての人が加害者であり、
また被害者でもある。

私はそう考えています。

被害者といっても擁護はしません。
なぜなら、そのような生きづらい社会を変える責任は、
我々自身にあって、我々だけが社会を変えられるからです。

誹謗中傷する人を非難することは簡単です。
しかしその言葉で、彼らが人を誹謗することは決してやめません。

それは社会の寛容さを自分が享受できていないからであって、
多くの人が「捌け口」を探しているのです。
その対象が「りゅうちぇる」さんになっただけであって、
これはあなたがそれになる可能性だってあるのです。

本気でそう考えることが、本当の解決への第一歩です。

誹謗した人が誹謗をやめるのは、
他者から「やめろ!」と言われたからではありません。

自分自身で気づいたときだけです。
もしくは、他者を批判するような気分ではなくなったときだけです。
自分自身が世間から批判にさらされているような
自己肯定感の欠如、
満たされない心が、他者へのネットスクラムを生むのです。

りゅうちぇるさんは自死をしましたが、
残念ながらそのことで「やりすぎた」と反省する人はいません。
だから繰り返されるのです。

もしあなたが他者から酷い目に遭わされていると感じたとしても、
どんなに苦しくても、自死をしないようにしてください。

なぜなら、それらの人々は本気であなたを批判しているのではなく、
ただ捌け口が欲しいだけなのであって、
残念なことに時間が経てば、あるいは別のネタを見つければ、
あなたのことなどすぐに忘れてしまうのです。

そんな無責任な誰かの正義感のために、
あなたのかけがえのない大切な命を失う価値はありません。

この件を解決するには、社会が変わるしかないのです。
社会の空気圧を下げるしかない。
同じようなネットスクラムが二度と起きてはいけません。

その引き金を容易に引く可能性がある
メディア関係者の人たちも、そのことを心しておくべきです。

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