見出し画像

民主主義の敗北とは誰の敗北か?

昨年の7月8日、参議院選挙の真っ只中、
安倍晋三元首相が選挙の応援演説の現場で狙撃されました。

そのことをして「民主主義への挑戦」という言葉が飛び交いましたね。
そして当初は安全の観点から選挙活動を取りやめた多くの候補が、
少しの時間だけをおいて再び活動を開始しました。

そのとき「民主主義を守る」とか
「暴力による言論弾圧に屈しない」という志が語られていた様に思います。

私自身、今の時代は民主主義の危機の時代だと思っています。
このままでは民主主義は敗北する。
そんな危機感です。

では、その「民主主義」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。

民主主義の危機と言論の自由やその抑圧とを結びつけて考える場合、
民主主義を「話し合いで決める仕組み」と捉えているように思います。

ですから、暴力の恐怖によって言論を封じたり、
自由に発言することを「怖い」と思わせることは
民主主義への挑戦であり、
その恐怖や圧力に屈することを民主主義の敗北と言うわけです。

それはある一面として正しいと思います。

でも、私は少しだけ違和感があるんですね。
何に違和感を感じているのか、考えてみました。

ちょっと古いものですが、我が家にある広辞苑(第4版)で
民主主義とは何か? その辺りの言葉を調べてみます。

【民主】
一国の主権が人民にあること。

【民主国家】
民主政体をとる国家。民主主義の国。

【民主主義】
人民が権力を有し、権力を自ら行使する立場をいう。
基本的人権・自由権・平等権・あるいは
多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、
またその実現が要請される。

【民主政治】
国家の主権が人民にあり、人民の意思に基づいて運用される政治。
対義語:独裁政治

まぁ、そんなところです。

もちろん多数決原理を有効に活用するには、
候補となる方法についての話し合いが必要になるので
言論の自由が保障されていることは前提ですし、
それは「基本的人権」に含まれるはずですので、
言論こそが民主主義であるという考え方に異論はありません。

しかし、私が思うのは、言論などは民主制の目的ではなく、
手段なのだと思うのですよね。

言論の自由を獲得するために民主制をやっているわけではない。
民主制や民主主義の本質は、あくまでも、
「一国の主権が人民にあること」だと思うのです。

たった一人しかいない国王や天皇に主権があるのではなく、
人民に主権があるということの大きな特徴は、
人民は「人数が多い」ということです。

たくさんの人間が集まって主権を行使するわけですから、
そこに「話し合い」というプロセスと、「決定」というプロセスが必要になる。
正しく話し合うには言論の自由が必要ですし、様々な人権の擁護が必須です。

そしてその最終決定手段が「多数決」ということですよね。
ですから、多数決が民主主義の根幹なわけでもないのです。
あくまでも手段です。

話し合いも、多数決も、主権が人民にあるということを
体現するための手段なのだということです。

最近、話し合いのプロセスを重要視しないことが
社会の中のあらゆる場面で起きています。
もっと言えば、意見のちがう人と話し合うスキルや、
意見のちがう人とどのように接するかという能力が失われていくこと。

そのような市民の人間力の劣化は、
民主主義の劣化と直結しているということです。

では、民主制や民主主義の本質とはなんでしょうか。
それが明確でなければ、民主主義の敗北とは何か?ということは
決められないと思うのですね。

民主主義の本質とは、
やはり辞書の最初に書いてあることに尽きると思っています。

「一国の主権が人民にあること」です。

では、「一国の主権が人民にあること」とは、何を意味しているのでしょうか。
何を要請しているのでしょうか。

それは人民の政治への参加と、その意識の質です。
政治(=国の在り方や国の舵取り)や社会を、自分ごと化するということです。

民主主義を最も適切に言い換えるなら、
「民衆が国の方針決定や運営を自分ごと化し、
 そこに参加していく仕組みである」といえるのではないでしょうか。

つまり、民主主義とは、
「ボタンひとつであとはおまかせ!」という便利な家電品とはちがって、
民衆にとってとても面倒臭い仕組みであり、
ものすごく大きな参加意識と行動を、我々一般市民に要求するものなのです。

「ボタンひとつであとはおまかせ!」のラクラク政治システムのことを
独裁政治というのだと理解できれば、わかるはずです。

民主主義の主役は、どう考えても我々一般市民なのです。
それを主権者と言いますが、
我々は生まれながらに主権者であって、それをやめることはできないのです。

・・・となると、民主主義の成否を握っているのは主権者なのです。
政治家ではなく、です。そこに大いに驚いて欲しいのです。

民主主義の質を決めているのは主権者たり私たちの質そのものなのです。
政治や社会が劣化していくのは、私たちが劣化していることとイコールです。
政治は政治家がやることではなく、
政治家を操りながら、我々一般市民がやること。

ですから、民主主義の敗北とは、私たち一般市民の敗北であって、
それはすなわち、一般市民が政治を投げ出す、
面倒臭いと思う、無関心になる、ということです。

重要なことなのでもう一度書きます。

民主主義の敗北とは、一般市民が無関心になること、です。
言論弾圧なんて、民主主義への挑戦ではありません。
もっとずっとくだらないレベルのことです。
なぜなら、一般市民が常に関心を持ち、正しく政治家を選び、
正しく国家が運営されていれば、言論弾圧などできるはずがないからです。

どんな政治体制においても、政治家より主権者つまり一般市民の方が
圧倒的に人数が多いのです。
その圧倒的多数の市民が判断や選択をまちがわなければ、
言論弾圧は起こりません。

つまり、そのような「手段の誤り」も含めて、
市民の無関心がその根源的な原因として存在しているということです。

ちょっとパラドックスっぽいし、ニワトリ・タマゴですが、
それが真実なのだと思っています。

戦後の日本人は経済の成長こそが正義とばかりに、
しゃかりきに社会を発展させてきました。

昭和の時代の中で、あらかたお腹が満たされた市民に対して、
その経済の猛烈な動力源は「モノ」ではなく「サービス」という方向で
人々を満足させようという方向に進展しました。

それが平成という時代だったと思います。

平成の時代に、市民は「お客さま」になりました。
社会がデフレになり、世の中を巡るお金の総量が減ると、
少ないお金を奪い合うために、企業はより高いサービスを提供し、
その当たり前の反応として、市民はお客さまという神様になりました。

お金の流れの川上にいる立場なら
気に食わないことがあればなんでもクレームをつけ、
川下にいるときはお金のために滅私する。

そんな歪んだ社会の中で、
人々は「サービスがないものに対して行動することは損なこと」という
お客さま根性を当たり前だと思う様になった様です。

そんな流れの中で
「投票して欲しければ、もっと興味のわく政治をしろ」という要望が、
当たり前の様に語られる様になっていきました。

投票証明の用紙を見せれば、割引してくれる喫茶店や、
おまけをつけてくれるお店などの存在には、一定の敬意を表したいです。

しかし、そのような流れは本当に正しいのでしょうか。
あえて言うなら、私にはそれはお客さま根性を助長するだけで、
最終的には民主主義の敗北を早めているだけなのでは?と思うのです。

日本が陥っているこの停滞をなんとかする方法はただひとつです。
それは停滞することをやめることです。
それはつまり、私たち一人ひとりが
「お客さま」でいることをやめることです。

なぜなら、私たちがお客さまであるということは、実は錯覚に他ならないからです。
この社会に「お客さま」なんていません。

時と場合によって相対的に送り手と受け手がいるだけで、
この社会は全体がつながっているのだから、
「お客さま」は一人もいないはずなのです。

それは政治への関与や、民主主義の成立についても同じです。
そこにお客さんはいない。全員が主役であり、参加者なのです。
それが変えようのない事実ですから、
そこに気づくことこそが民主主義の勝利であり、
そこに気づかないこと、気づかぬフリをすること、
目を逸らすことこそが民主主義の敗北なのです。

先日、衆議院議員の小川淳也さんが
青空対話集会の中でこう言っていました。

政治は、興味がわくから向き合うものではない。
関心があるから、目を向けるものでもない。

どうあれ関心を持つこと。
それしか選択肢がないということ。

その自覚を促すために、北欧では子供の頃から主権者教育をし、
90%を超える投票率を実現している。

そこでは、市民は政治家が悪いことをするはずがない、という
信頼関係を構築しているというのです。

その話をきくと、日本の政治が腐っていることを実感しますが、
それは日本の民主主義が腐っているということであり、
それは、私たち市民が、主権者として腐っているという
目も当てられない様な現実を表しているのです。

私たちオトナは、もう他人のせいにすることをやめなければいけません。
政治家のせいにするのもそのひとつです。

彼らを国会に送っているのは私たち自身です。
政治家が我々を裏切る様なことを平気でやるのは、
私たち有権者が、民主主義に対する裏切りを行っていることの
正当な結果です。

この国を変えていくのは政治家ではありません。
私たち一人ひとりです。
どんなに綺麗事に聞こえてもそれだけが事実であり、
もし、そんなことは到底できるわけがないと思うのであれば、
それはその人が主権者として腐っているからであり、
諦めているからに他なりません。

私たちは日本という乗り物にのったお客さまではありません。
私たち一人ひとりが、日本そのものです。
そのような実感を持つことが、1億分の1の主権者として、
正しく目覚めていくことなのだと思います。

私は、おかしなことを言っていますか?
理想論ですか? お花畑でしょうか?

もう、そのロジックに甘えるのはやめませんか?
民主主義を敗北させるのも、勝利させるのも、私たちなのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?