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それでも、自衛隊違憲論が必要な理由。

あなたが誰かにお金を貸しているとします。
100万円だとしましょう

そうなると、その人は、例えいま、手元にお金があったとしても、
あなたの目の前では好きなものを買うことはできませんよね。

だって、あなたから借りたお金をまだ返していないんですから。
「それを買う金があったら、返してよ」と言われますもんね。

心情的な話です。

今、手元にあるお金が、その人にとっては
返済用のお金ではなかったとしても、そんなこと、関係ないわけです。

本来なら、約束通りちゃんと返しさえすれば、
何を買っても文句を言われる筋合いはないのだけど、
まだ返してないから、自由にはできない。

でも、そういうことはよくありますよね。
「そもそも、その権利が、あなたにはなくない?」
という深層心理が、行動の歯止めとなる、という例です。

さて、総選挙が終わり、いよいよ憲法改正に関して、
自民党が活発に動き出しましたね。

彼らの本丸は非常事態条項ですが、
当面の目的として、「憲法への自衛隊明記」というのがありましたよね。
覚えていますか?
安倍晋三さんが総理大臣の時代に、
譲歩案として、半ば勝手に考えたアイデアのようです。

それにしても、
憲法に自衛隊を明記さえできれば、9条はそのまま残すというのですから、
明記することには、ものすごく大きな意味があるんですね。

憲法改正の本質はそこではないはずなのですが、
まずはこの点について思うところを書こうと思います。

そこには「とても大きな意味」が隠されているからです。

安倍晋三さんがこだわる、憲法への自衛隊の明記。
その理由について、彼はこんなことを言っています。

「自衛隊違憲論に終止符を打つため」

なるほど、ちょっと理解できそうです。
だって、自衛隊は実際に存在しているのですから。

すでに存在している自衛隊が、憲法に違反している、という議論はおかしい。
だから、憲法そのものに自衛隊を明記することで、
その存在に関しては「違憲ではない」ということを確定しよう。

そういうことです。

その点に関して、あまり疑問を持つ人はいないのではないでしょうか?
だって、実際に自衛隊はあるのだし、
災害の時など、日本人はなんども自衛隊に助けられています。

私も、自衛隊は存在していていいと、個人的に思っています。

それでも、私は「自衛隊違憲論」が存在すべきだと思っています。
なぜなら、「自衛隊は違憲だ!」という意見や、そう主張する人々に、
一定の「役割」があると思っているからなのです。

物事、というのは、非常に「バランス」が大切です。
人間の心と体が交感神経と副交感神経の引っ張り合いで
バランスが保たれているように、
すべての事柄には、ある方向に引っ張る力と、
その反対側に引っ張ろうとする力があって、初めてまっすぐでいられるのです。
作用と反作用のようなものですね。

ものが静止しているという物理現象でも、
支えがなければ動き出してしまう場合、
静止させておくためには、ある力が働いている、というわけです。

なんとなくイメージできるのではないでしょうか。

そういう意味で、自衛隊違憲論にも、原発反対論にも、
すでに、明確な役割があって、我々はその力学の元に、
なんとかバランスをとって、今も日常を成立させているのです。

伝わるでしょうか?
反対意見というのは、存在していなければいけないのです。
人はいつも、自分の思い通りになればいいと望み、
自分とちがう意見の人がいなくなればいいと思ってしまいます。

ラクですもんね。

でも、実際にそんな状況になったら、人は絶対に失敗するのです。
その理由は絶対に正しい意見は存在しないからであって、
「ちょっと待った!」という意見を淘汰すると、その先には必ず破滅が待っている。

人類の歴史を振り返ってみても、そんな例は山ほどありますね?
私たちの国、日本だってそうだったですよね?
戦争に反対したら逮捕されて拷問にかけられて殺されていた。
日本はそういう国だったんですよ。忘れないでくださいね。かたときも。

さて、反対意見の必要性についてです。想像してみてください。

例えば、もしこの日本人のすべてが原発許容派であったら、
日本の原子力事情は、今とはまったくちがう状況になっているし、
事故やその後処理に関しても、今とは比べ物にならないくらい
惨憺たるものだったはずだと思いませんか。

国はなんの躊躇もなく、今以上に不都合な情報を隠蔽しまくったでしょう。
だって、誰も文句言わないんですからね。

同じように、もしこの日本に「自衛隊を違憲だと思う」という人が
一人もいなくなって、自衛隊の存在そのものを全面的に認めると、
議論の足場は、もっと好戦的なゾーンへと一歩進むことになるのです。

もうすでに集団的自衛権そのものは認められてしまいましたが、
日本が本当にアメリカと一緒に戦争することになれば、
黙っていない国民はたくさんいるでしょう。

そのとき、
「そもそも存在すら認められていないのに」というところに足場があるのと、
それがまったくないのとは大違いなのですね。
冒頭に書いた借金の例を思い出してください。
「そもそも、借金を返してないのに、
 あんたに好きなだけ金を使う権利があるのか?」ということです。

存在を全面的に認めれば、
次の問題は、果たして「徴兵制」なのか、あるいは「核武装」なのか、
それは今はわかりませんが、そういう会話ができるようになる。

今の日本で、そんな話がおくびにも出ないのは、
「まず自衛隊の存在そのものがまちがいなのではないか?」という意見が
絶えず存在するからなのですね。

存在そのものが許されるかわからない組織が、
徴兵したり核武装したりなんて、議論さえできるはずもありません。

そう思いませんか?

おそらく、これからの日本で、自衛隊が違憲だということになって、
その存在そのものが解体されることは、ないのだと私は思っています。

自衛隊が違憲だ、と言っている人も、それはそうなんじゃないでしょうか。

けれど、彼らは、そういう意見を主張することで、
それ以上先の話にならないように、という、杭となる
非常に重要な役割を果たしています。

だから、「自衛隊違憲論」は今後も必要だし、その根拠となるべく、
憲法への自衛隊明記は、絶対に許されることではないのです。

昔、「天皇機関説」というのがありました。

天皇は役割のひとつなのである、という考えで、
天皇が国家元首であり、神でもあるという明治憲法のもとでは、
その存在をどう解釈すべきなのか、という議論があったのです。

でも、戦争が終わって、日本国憲法に変わると、
そこが整理されて天皇は神ではなく「象徴」という役割になったので、
天皇機関説そのものが不要となり、その議論はなくなりました。

今は誰もそんなこと言いませんよね?

それと同じように、自衛隊が憲法に明記されれば、
自衛隊違憲論は存在する理由がなくなるので、消えて無くなります。

けれどそれは、天皇機関説とちがって、人が軍備というものを持つにあたり、
どのような「歯止め」が必要か、という意味での足かせを外すことになります。

今、自衛隊明記を標榜する政治家たちの狙いは、実はそこにあるのですね。
決して「自衛隊に失礼」などという理由ではないのです。

だって、警察も消防も、そもそも憲法には書かれていないのですから。
それで警察や消防に失礼だ、なんて、誰も言いませんよね?

戦争へ向かおうとする国家の行動に大きな歯止めとなっているのが、
「自衛隊違憲論」なのである、ということを彼らはわかっている。
だから、そこを根こそぎ消去したいわけなんですね。

すでに存在している自衛隊だからこそ、
「そもそも違憲なんじゃないか?」という歯止めが、常に必要なのです。

それは人間の愚かな暴走を防ぐための知恵だと言うことができます。

自衛隊の存在を現実には認めつつも、
それが憲法で完全に認められているのか、不明である。

だから「そんなこと、していいのか?」という議論が絶えない。
その議論そのものが、それ以上先に行かせないための抑止力になっている。

いかにも日本人的な方法で、歯止めをかけているじゃないですか。
素晴らしいと思います。

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