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関学の学生に関する私的意見

関西学院大学アメフト部の5人の学生が、
日本代表(U20)のカナダ遠征中に
大麻を使用した疑いで罰則を受けました。

そのうちの一人(仮にここではA選手とします)は
大麻の蓋然性のあるものを所持・使用した疑いがあり、
日本アメフト協会管轄下の試合に、
一生涯出場できないという裁定がくだされました。

今日はそのことに関する私的意見です。
あくまでも私的な意見であり、
ことを荒立てたいという意思はまったくないことを前提に、
今の段階での考えを述べてみます。

まずは報道ベースによる客観的な状況なのですが、
カナダに遠征中に「関学の学生が大麻を使用しているらしい」という
噂が流れ、それを元に、A選手の部屋に勝手に人が入り、
勝手に荷物の検査をされたりしたとのこと。
検査をしたのが誰なのかはわかりませんが、
誰かが上記のようなタレ込みを行い、それを一方的に信じた人が
無理に手荷物検査をしたということのようです。

フットボール協会は「大麻」に
過度に神経質になっているのかも知れません。

そもそもA選手はこれに憤りを感じていたとのこと。
また、これは恐らく帰国後だと思われますが、
協会側からヒアリングが、
「大麻使用ありき」の決めつけた態度で
かなり高圧的な面談であったことを理由に、
その後、協会が貸した「毛髪検査」をA選手は拒否。

その後も最後まで拒否しつづけました。

ちなみにカナダからの帰国後、
チームは5人の選手たちにヒアリングをしたところ、
5人とも薬物の使用は否定。
厳格な尿検査も行い、そこでは結果は陰性でした。

協会が要請した毛髪による検査は4人はうけ、全員が陰性でした。

関学側は基本的に協会側が課した裁定を受け入れていますが、
その理由は協会が示した大麻使用によるものではなく、
「毛髪検査の受診を最後まで拒否しつづけたこと」としています。

つまり、関西学院は一貫して
学生の大麻使用に関しては否定している
(その学生の意見を信じている)ということです。

さて、こういうときに第三者として必要なことは、
大麻使用ありきのワイドショー的視点ではなく、
「本当に大麻を使用していなかった場合」を
自分ごととして想像する視点を持つことです。

仮に大麻などまったく使用していないのにも関わらず、
「あいつが大麻を吸った」という疑いをかけられ、
その決めつけに基づいた行動をとられた場合に、
その人はどう考えるか、という視点を持つことです。

その視点を持たないかぎり、世論の暴走は人を傷つけつづけます。

そういう場合に、他者の指示に従うという考えの人もいるでしょう。
しかし、「大麻を使用していないからこそ」、
悪人や罪人と決めつけられることに憤りを感じる人もいます。

それは「人権意識」が高いからです。

人権とはなにかというと、「自分の人間の尊厳を守る権利」です。
薬物を使用していないのに、
人から荷物検査を勝手にされたり、
毛髪検査を強要されることは、人権侵害であるという主張は
まったく訳のわからないものではありません。

もちろん、疑いを晴らすために検査を受ける、という人もいるし、
検査を受けないということはクロなのだろう、と決めつける人もいます。

しかし、人の価値観というのは様々なので、
あなたがそう考えるからといって、他の人もそう考えるべきだ、
というわけにはいきません。

犯人だと決めつけられることそのものに対して
最も重要な「人間の尊厳」を傷つけられたと感じた場合、
そのことを絶対に譲らないという態度を貫く人もいます。

それは「実際にはクロだから」ではありません。
繰り返しますが、高い人権意識があるからです。

今回の場合でいえば、フットボール選手をつづけたいのであれば、
長い目でみれば、自分の尊厳を主張して検査を受けないことは
損な判断であり、誤った行動です。

しかし、例えばフットボールがどれくらい重要か、という判断も、
その人によって、あるいはときと場合によってちがいます。
通常の平時であればフットボールがいちばんだいじ、と思っている人でも、
自分の人間の尊厳が著しく傷つけられたと感じる有事においては、
フットボールをつづけることよりも
人権を守ることの方が重要だと感じてもおかしくはありません。

そして「悪人と決めつけられて検査を無理強いされること」に
人権侵害の意識を持った場合、
そしてそれが自分の価値観にとって決して譲ることのできない
非常に重要な要素だと考えた場合、
フットボールを続けられなくとも、
検査を拒否しつづけるという態度をとる可能性もあります。

「そんなはずないだろ」
「普通、そんなやついないだろ」

などという外野の意見は無関係です。
「普通」という言葉で他者が勝手に決める基準ほど
当事者にとって理不尽なものはないからです。

今回の出来事を外部からの目で見た場合、
その人の大義がどこにあるのか、という問題があって、
当然、フットボールチームとしては
「フットボールをつづけること」が大義であるのだから、
検査を受けて潔白を証明すべきという進言をするでしょう。

それは正しい。

しかし、もしその当該選手の個人としての大義が、
「自分の尊厳を守ること」である場合、
たとえフットボールができなくなったとしても、
無実の人間を疑うということに疑義を持ち、
それに抗議をするという態度を貫くこともまた正しいでしょう。

問題はその人の大義がどこにあるかとういことです。

ですから、その選手が大麻を使用していない場合に限り、
私は彼の判断を支持したいと思います。

ただひとつ気になるのは、彼はまだ若いということです。
若いときの気持ちや感情の揺らぎは、
若くない人のそれとはちがいます。
いっときの感情の昂りによって判断したことを、
あとから後悔するということも考えられます。

そしてこれはそもそも論ですが、
若気の至りという言葉があるように、
若い人に完璧を求めることそのものが正しいこととは
私には思えないので、
今回の件で、彼から
「日本でフットボールをする機会」を半永久的に奪うという判断は、
あまりにも行き過ぎていると私は思っています。

彼の今後に期待をし、一定の期間をおいたのちに、
この裁定を取り下げるのが「おとな」の判断なのではないでしょうか。
意地の張り合いをしても、時間が過ぎ去ってしまいます。
大人は大人として、
どうすれば彼をより大きく人間として成長させられるか、という視点で、
選手や人材を大切にすることが今の日本には必要だし、
フットボール協会にも、そのような視座を持っていて欲しいと
私は感じています。

「疑わしきは切る」という態度は、
確かにストレス社会に晒されて、
憂さ晴らしを求めている世論には歓迎されるかも知れません。

しかし、切られた人の人生はつづくのです。
そこに目を向けられない社会に未来はありません。
もっと一人ひとりの命と人権を大切にしてもバチは当たらないし、
長い目で見れば、その方が必ず評価されるはずです。

これが、この件に関しての、私の今の時点での、所感です。

「不都合なものは切る」という方法は解決手段としては必ずしも正しくなく、
日大フェニックスの廃部も行き過ぎた判断であり、
教育機関としては、人生の発展途上であり、まだまだ未熟な若者たちと、
もっと真正面から向き合うべきだと私は一貫して感じています。

若者は完璧ではありません。
スポーツマンだからって完璧ではありません。
いや、この世に完璧な人間は一人も存在しません。
その事実を決して忘れてはならない。

過ちを犯した若者にセカンドチャンスがある社会を、
大人はつくっていくべきです。

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