広告と思いやりと社会のバランス
さて、つい昨日ですか。
ネットで炎上したこの広告について、
私は2つの問題点を感じました。
ひとつは送り手側の問題点。
もうひとつは、受け手側の問題点です。
広告というものの近年の姿について、
非常にストレスフルな感覚を持っていますが、
人の心に土足で踏み入ることを是とすればするほど、
人は警戒し、不信感を持ち、
心の扉を閉ざすものだ、ということを理解すべきでしょう。
仮にも広告は人との
コミュニケーションなのであるとうたうなら、尚更です。
まずは送り手側の話からしてみましょう。
※
送り手側から見た広告には、
3つの側面があります。
「誰に?」と「何を?」と「どんなふうに?」です。
「誰に?」はターゲットと言われるものですね。
伝えようとしている相手です。
「何を?」とは、メッセージの内容や、その表現方法ですね。
どんな広告クリエーティブなのか?ということ。
「どんなふうに?」は放送や掲出の仕方、届け方です。
今回の場合、ターゲットはビジネス街で働くサラリーマンですね。
電波媒体や紙媒体とちがい、
屋外広告はターゲットの狙い撃ち度が極端に高くなる場合があります。
もちろん、どんな場所なのか?にもよりますが、
サラリーマンに対してビジネス街の最寄駅というのは、かなりガチですね。
今回の場合、品川駅でした。
広告クリエーティブの中身は、
「今日の仕事は楽しみですか。」
というコピーだけのシンプルなビジュアル。
かなり強いですね。
その強さは、2つの要素から来ていて、
ひとつは無駄を削ぎ落としたデザイン面。
もうひとつは、微妙に意地悪な「言い方」です。
ここが、かなり問題なのだと思います。
意地悪なんですね。
どう意地悪か、というと、読む人の心の中に
微妙な不快感とともに刻まれる手法を取っていることが、です。
ネットには炎上商法という言葉がありますが、とても似ていますね。
わざと癇に触るようなことを言って騒ぎにする、ということ。
広告はターゲットの心にメッセージを届かせ、記憶させることが目的です。
だから、この広告はその目的を果たしている。
しかし、記憶というのはポジティブなものとネガティブなものがあって、
後者の方が簡単であり、かつ、心の傷になりやすいのです。
丁寧ではなく、乱暴な技法と言えます。
心のドアをノックし、本人が開けてくれるのを待つのではなく、
無理やりドアを蹴破るイメージでしょうか。
トゲのある広告というのは本当に気をつけて作らないと、
今回のような結果になりやすい。
クリエイターのエゴがマイナスに出てしまったかな、と感じます。
※
けれど、この意地悪なコピーも、新聞の全面広告や、
仮に交通媒体にポスターを掲出したとしても、
たった一枚だけなら問題にはならなかったでしょう。
このジャックのスタイル、つまり「どんな風に」がまた、
良くなかったんですね。
もちろん、心に刻むという目的は果たしていますが、
この意地悪な言葉とのマッチングが良くない。
なぜなら、そこに送り手から受け手への「思いやり」がないからなのです。
導線を利用して、逃げ場がない生活者に対して、
容赦無く言葉の銃弾を打ち込んでしまいました。
この「どこにも逃さないぞ」という態度、姿勢が、
嫌悪感を増幅したのでしょう。
あれは、1985年だったでしょうか。
タイガージャージで有名な慶応大学ラグビー部が、
久々に優勝した年がありました。
その年の同部の一年を追いかけたNHKのドキュメンタリーがあって、
タイトルは確か「慶応、魂のタックル」でした。
私はその番組が好きでいっとき何度も観たのですが、
そのオープニングはこんな映像でした。
カメラが主観で部室に繋がる通路を進んでいきます。
そこに延々と張り紙がしてあるのです。
書いてある言葉、「タックル」
「タックル」「タックル」「タックル」
走ってくる相手に体当たりするというのは、とても怖いものです。
その恐怖心に打ち勝ち、相手に低く強烈なタックルを浴びせる。
それがこの年の慶應のラグビーでした。
その執念にもにたタックルへの拘りは、あの張り紙の一枚一枚を
毎日繰り返し目に焼き付けることで実現されたのでしょう。
これはまさに、格闘スポーツとしては、
いい意味での「洗脳」なわけですが、
ちょっとちがうものとして、オウム真理教の問題が持ち上がったとき、
「修行をするぞ!修行をするぞ!修行をするぞ!」
という連呼が話題となりましたよね。
教祖の声による連呼が、
人の心理に影響を与えた、ということが、当時、取り上げられました。
音でもビジュアルでも、連呼による刷り込みというのは、
使い方によって非常に危険な要素をはらんでいるので、
実施するときはとっても注意が必要なのです。
※
でも、連呼が必ずしも悪いわけではありません。
かつての佐藤雅彦さんの名作CMの数々を引き合いに出すまでもなく、
好例だってたくさんあります。
例えば今回の広告からも想像して欲しいのですが、
もしコピーが、「今日の3時のおやつが楽しみだ」
というものだったら、どうでしょうか?
連呼による擦り込みは承知の上でも、
それほど嫌な気持ちにはならないでしょう。
つまり言葉とその出し方の組み合わせに、
記憶にさえ残せば、どんな手段でもいいのだ、
という勘違いが起きていることに、送り手側の問題があるわけですね。
その場にいる人への思いやりが欠如してた、
という広告人格の至らなさです。
気をつけなければいけないと思います。
どんなに心に残っても、
悪いイメージでは広告を出した意味が逆効果ですもんね。
※
さて、今度は受け手側の問題点についてです。
とは言っても、通行人に問題があるわけではありません。
この広告が炎上した、という現象に目を向けなければいけない、
という意味です。
この広告が不快になる心理を見つめてみると、
仕事というものと、
それに従事する労働者の心理的な関係性が不健全になっている、
という現実が浮かび上がるわけですね。
「今日の仕事は楽しみですか?」と聞かれたところで、
実際、今日の仕事が楽しみな人なら、
「はい!楽しみです!」で終わりかも知れない。
でも、多くの人に不快感が生まれたのは
「仕事」というもののポジションが、生きるために仕方なくやるもの、
ということになってしまっている今の社会に原因があるのですね。
人は苦しくてもやり甲斐を感じられれば頑張れます。
しかし、お金のためだけが目的になると、
仕事は収入のために我慢してやるものになる。
途端に「労力は最小限であれ」となってしまう。
人と労働の関係が、お金によって根本から歪められているという、
その現実が、この炎上から見て取れるわけです。
送り手側の問題は広告業界の出来事ですが、
受け手側の問題は、現代社会の根深い傷です。
そもそも、このような広告が生まれるのも、
潜在的に仕事にネガティブなイメージがあることを利用しているわけで、
あらゆるレイヤーで負のスパイラルが起きているということですね。
もしかすると、広告クリエイター本人も、
仕事が楽しくないのかも知れません。
どれも大きな問題ですが、
社会の意地悪なムードを助長することは、みんなを不幸にしますね。
広告によって、社会の寛容さが
さらにすり減ってしまうことは、避けたいものです。
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