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多様性原理主義の危険性

多様性という言葉が叫ばれています。
私も多様性社会への変革は大賛成です。

でも、多様性を叫んでいる人々の主張を聞くと、
なんだか違和感を感じています。

それは「多様性のカタチが均一であること」からきています。
多様性を認めない人はまちがっているとか、
「あの人はわかってない」とか、
多様性を主張する人に限って、そのように押し付けている気がします。
多様性を主張する人に限って、多様性がないのです。

人の思想まで変えようとすることは、それこそ人権問題です。
たとえお題目が多様性であっても、思想統制は、あってはなりません。

どんな考えの人がいてもいいのです。
しかし、重要なのは、
自分の考えを他者に押し付けてはいけない、ということです。

そこが多様性の最も本質的な部分だと私は考えていすが、
ちがうでしょうか。

例えば旧来の「男らしさ」や「女らしさ」は
ステレオタイプに語られて否定されます。

今の「男らしさ」は、昔のとはちがうんだ!という人がいます。
え?と私は思います。
今の男らしさが存在したら、結局、
人をカタチに当てはめようとしていることは同じではないですか?

多様性というのは、今まで陽が当たらなかった人にも陽が当たるでしょう。
しかし、今まで陽が当たっていた人を否定することではないのです。
今まで陽が当たらなかった人が、
「俺にスポットライトを当てろ!」というのはいいとして、
「今までの人は消えろ!」というのはおかしい。

それは多様性ではなくて、今までの強者と弱者が入れ替わっただけです。

強者と弱者という分け隔てがなくなることが
多様性の目的だと私は思っています。
だから、今までの価値も存在していていいし、
新しい価値も存在していい。
少数の価値も、大多数の価値も、
その重みが同じなのだとみんなが認めていればそれでいい。

そういうことではないのでしょうか。

多様性というのは、他者を認める視点です。
決して「ヤツではなく自分を認めろ!」ではない。
みんながお互いに他者の存在を認め合うことなのであって、
そこに否定される存在があること自体、矛盾していると
私は考えています。

強者と弱者が逆転しただけでは意味がない。
それでは悪しき歴史が繰り返されるだけなのです。

今まで通りの「男らしさ」が好きな人がいてもいい。
「新しい男らしさ」を求める人がいてもいい。
「男も女もない」という人がいてもいい。
「男が好きな男」がいてもいい。
どんなタイプの人間がいても、その存在が認められ、
人間の尊厳が守られるということなのではないでしょうか。

そのために必要なには、自分とはちがう他者を、
放っておくスキルです。

人間の、人間に対するリテラシーとも言えるかも知れません。
それをあげることです。
他者が自分とちがうことに寛容になることです。

ジェンダー問題やダイバーシティ、DEIの答えは、
他者への寛容にあるはずです。

モヤモヤをモヤモヤのまま置いておく勇気とスキル。
ネガティブ・ケイパビリティですね。

欧米ではジェンダー問題の議論がかなり進んでいます。
LGBTに対する議論もそうですね。
そのこと自体はとてもいいことだと思っています。

しかし問題は、そのことが行き過ぎると、
多様性警察化してしまうと思うんですね。

そもそもこのような概念は、
それぞれがイキイキと生きやすくなるためのものであるはずです。

みんなが生きやすい社会をつくることが目的ですね。
そうであれば、今まで生きにくかった人が救済されるのは当然のことです。

しかし、それと引き換えに別の人を生きにくくするのなら、
正しいとは言い切れないでしょう。

あくまでも、誰もが生きやすい社会をつくることがゴールです。

みんなが同じだけ他者との向き合い方を修正しなければいけません。
誰か一部の人だけが全面的に背負うことではありません。
人間社会に起きるすべての問題は人間が起こしています。
その解決の鍵は「相互理解」であるはずなのです。

意識高い系の人が、古い考えの人を上から目線で見下している間は、
この問題が本当に解決することはないでしょう。

人間がお互いに理解しあおうとすること以外、
解決する方法はないのです。

人権というのは、世の中を住み良いものにするために存在するはずです。

しかし、用法を誤ってしまうと、
他者の存在をひたすらに迷惑だと感じる社会になっていきます。

気に食わないことがものすごく多い社会になってしまいます。

先日、ツィッターで見たのですが、
近隣の田圃で鳴くカエルの声が迷惑だからなんとかしろ、というクレームを
農家の人につきつける張り紙を見ました。

人間はいま、ここまできているのです。
このような道の先に、人類が笑顔で暮らしていける社会はないでしょう。

どうやったら他人の権利を守れるのか、ということに、
もっともっと一人一人が意識を集中すべきです。
自分の権利の主張ではなく、他者の権利です。

相互理解、多様性とは、そういうことだと思います。

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