刑務所はなんのためにあるのか

ノルウェーの刑務所は、
ものすごく快適だという話を聞いたことがあります。

受刑者の多くは、それまでの人生の中で、
それほど行き届いた環境で暮らしたことはないほどです。
なぜでしょうか?

これを理解するには、
「そもそも刑務所はなんのために存在するのか」という
パーパスの有無について考える必要があります。
パーパスとは、社会的存在意義のことです。

存在する本当の理由は何か、ということです。

刑務所は「罰を与える」ためにあるのか。
それとも、「社会を良くする」ためにあるのか。

私たちが刑務所の役割として期待するものはなんでしょうか?
悪いことをした人間に懲罰を与え、
こんな暮らしはもう懲り懲りだ、と思わせたいのであれば、
できるだけ苦しい環境にすべきでしょう。

しかし、本当に重要なことは、その受刑者が「自発的」に、
二度と罪を犯すまいと思うことではないでしょうか。
「あの苦しみを味わいたくないから」という理由は、
あくまでも「外圧」なのです。

外圧は本当の自分の中から生まれた感情ではないので、
時間の経過とともに失われやすい。
だから刑期を終えた人の再犯率を下げることには
それほど有効ではないようです。

もし刑務所の存在意義が後者だった場合、
つまり「社会を良くする」という目的だった場合を考えてみましょう。

まず社会というものは、
私たち一人ひとりの「構成員」が作り上げているものです。
ですから、「良い社会」とは、
私たち一人ひとりが良き生活ができる社会のことでしょう。

自分だけが良き暮らしができるということではないのです。

そう考えると、「良い社会」とは、
犯罪者になってしまう人を生み出さない社会だ
といえることが理解できると思います。

となると、刑務所の存在意義は、
「犯罪を犯した」という過去に対する懲罰ではなく、
そういう人が今後生まれないようにする、ということに
目を向けるはずです。

そして受刑者一人ひとりが、
なぜ自分は犯罪者になったのかという
「人生の物語(ナラティブ)」に目を向け、
そこにアプローチすることで本当の原因を突きとめ、
心の底から、本心から、「正しく生きたい」と思うこと、
自発的に「変わろう」と思えることが有効だとわかります。

犯罪者の多くは、社会の中でちゃんとした「人としての扱い」を
受けられなかった場合があります。
だからこそ本人に「本来の自分の善性」を見出してもらうために
良き環境を与えるのです。

これを「甘やかし」だと捉える人もいるでしょう。
それは物事を経済合理性だけで考えるためです。
しかし人間は心で生きている生き物ですから
経済合理性としては説明できない現象が
人間に作用する例は実際にたくさんみられます。
それが現実のこの世ですし、現実の人間です。

ノルウェーの刑務所のアプローチは、自分の頭で考え、納得し、
心の底から「まともに生きたい」と思うようになることで、
再犯率を下げるという方法だ、ということだと言えると思います。

私はどうも、日本人の中に
「懲罰的な思想」が根強く存在している気がしています。

それは長い歴史の中で島国根性として存在しているのかも知れないし、
ここ30年の失われた時間の中で醸成されたのかも知れませんが、
どちらにしても、他人が酷い目に遭うことを
どこか期待するという低レベルで幼稚なメンタリティが
世間に蔓延しているように感じています。

そういう考えであると、
先ほどのノルウェーの刑務所のことは理解できないでしょう。

そんなにいい暮らしができるなら、
犯罪者の方がトクじゃないか!と言い出すのが、
多くの現代日本人の精神ステージのように思います。

けれど、本当に社会を良くしたいのであれば、
どちらがいいのかを真剣に考えてみる価値はあります。
チンピラが刑務所から出所して、またチンピラになるのか。
それとも、人間の善性に気づいて
まったく別の人生を歩むのか。

街からチンピラを消すという目的に対して、
どちらのアプローチが得策なのかということですね。

私がこのことを書いているのは、
もちろん、日大アメフト部の廃部問題があるからです。

彼らがチンピラだ、と言っているのではありません。
私がなぜ廃部撤回の署名活動をしたのか、
その理由はそこにあるからです。

今の日本人は発想が「懲罰」です。
その感情がどこから来るのかということが
本来の向き合うべき部分ですが、
そこは深すぎるので別の機会にするとして、
懲罰が本当に良い社会をつくることに資するのかということです。

もちろん、罪を犯したものが一定の罰を受けることは
当たり前のことです。
しかし、罰を与えればそれで終わりなのか、
ということは考える必要があります。

懲罰という発想の根本には、
「人は他者のことを変えることができる」という
誤った発想があるのだと思います。

人は他者を変えることができません。
人は自分で変わるのです。

ですから変わることに必要なのは「気づき」なのです。
気づくためのヒントを与えることはできます。
だから「問い」が重要になるわけですね。

有効は問いを立てられるのはどんな方法か、ということです。

私はこんなふうに考えています。
人生をトータルで考えた場合、
「スポーツが得意な子の方が不利」なのかも知れない。

なぜなら彼らは誰の目から見てもわかりやすい
「取り柄」をもっているために、
それ以上、自分の頭で考える必要性を実感できにくいからです。
そういう幼少期を過ごします。

スポーツが得意な人でも、
一流や超一流になる人はごく少数です。
ましてや、人の上に立ち、人格者と認められる人はもっと少ないでしょう。

スポーツは、ある一定以上のレベルや年齢になると、
アタマを使って思考する必要が出てきます。
そういうことを自発的に身につけている子は、
そこからどんどん伸びていきます。

けれども、自分で考える方法を知らない子は
同じところをグルグルまわりつづけて
成長しないループに入ってしまいます。

そうなったときには、子どもの頃からの
努力によらない成功体験は返ってマイナスになります。

スポーツができる子ほど、
小さなときから「深く考える」という方法を
身につけさせてあげないといけないのでしょう。

それを導いてあげられる指導者が必要なのです。

いま、社会に必要とされていることは「深く考える」力です。
なぜなら、ちょっと禅問答のようですが、
今の社会が「深く考えること」をさせない社会だからです。

わかりやすく。はやく。

それが今の社会の価値です。
少なくとも経済社会ではそうです。
しかし、経済社会が人間に要求することの殆どは、
結果的には人間を蝕みます。
人間を蝕むとは、人間の心を蝕むということです。

心が蝕まれると社会が蝕まれ、
それは最終的には地球を蝕むことになります。

今日も、ポカポカと温かいですね。半袖でもいけそうです。
12月だというのに。

ホラ、わかるでしょう?
もう地球は蝕まれています。
その原因は、私たち一人ひとりの心が蝕まれているからです。

わかりやすさや、はやさを追求することは、
長期的には我々自身を崩壊させてしまうのです。

深く考えましょう。
一人も取り残すことなく、「深く考える人」にならなければなりません。
そのために大学という教育機関がなすべきことはなんでしょうか?

トカゲの尻尾を切ることでしょうか?
そうだとしたら、切られた若者はどこへ行けばいいのでしょうか?
そして、社会やオトナたちに恨みを抱えたまま、
どうやって良き社会をつくる大人に成長していけばいいのでしょうか?

考えるべきは、そこです。

トカゲの尻尾を切って切って、切り倒した先に、
いったい何が残っているのでしょうか。
そこにはどんな社会が展開されているのでしょうか。

誰もが目をキラキラを輝かせた、希望に満ち溢れた社会でしょうか。
失敗は絶対に許されないという恐怖に苛まれ、
誰もがビクビクしながら生きる消極的な社会でしょうか。

我々はトカゲの尻尾を切ることで短期的に溜飲を下げることと引き換えに
とても大切なことを切り捨てている可能性があります。

日本人の懲罰的なメンタリティは、

集団で地獄に落ちるアリ地獄発想だと思います。

この懲罰的な思考は、一種の心の病いなのかなと思うこともあります。
自分に迷惑をかけられたくないという、異常なまでの守りの姿勢と、
他者に懲罰を与えてやろうと言う人々の口調は、
得手して「苦しそう」だからです。

たとえ正義の意見だったとしても、
それが負の感情をまとうとき、それはあなた自身を苦しめます。
あなた自身が、自分を苦しめているのです。
ヤフコメなどを見ていると、本当にそう思います。
「そんなことを書き込むのは、さぞ苦しかろうに」と。

もちろん書いているときは
感情に任せて、その吐口として書いているのでしょうから
多少は満足なのでしょうが、
そのいちどの書き込みが脳の中に負のサイクルをつくって、
怒りの感情を雪だるま式に太らせてしまうことを
知っておかなければなりません。

負の感情はあなたの人生を負のループに引き込みます。

心を落ち着かせるのは寛容な気持ちです。
すぐには難しければ、心を騒つかせる問題と距離をとることです。

そうして、落ち着いた気持ちになったなら、
その渦中の人が自分だったらどうだろう、と考えてみることです。

誰もが、人に見せている部分は、その人の人生という物語の中の
ほんのひとかけらです。
氷山の一角です。

本当の姿は海面の下に沈んだ部分に存在しています。
そこに関心を持ち、理解しようとすることが、本当になすべきことです。

時間がかかります。答えはすぐに出ません。
しかしそれが現実なのです。

日大の事件にしても、何にしても、
何が本当の問題なのかということを、
もっともっと、もっともっと、もっともっと深く、
よく考えてみる必要があると思います。

きっとちがう景色が見えてくることでしょう。

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