見出し画像

【エッセイ】世界平和は人の顔をしているか

 今日の高倉は、新現場の基礎研修を受けてきました。二日工程で、今日が最終日です。会社の研修というのは往々にして退屈なものですが、今回の研修は実技が多く、普段触れることのできない機械に触らせてもらえるという羽振りの良さもあって、終始おめめキラキラギンギンで修了することができました。たのしかったです。
 基礎研修の受講者は高倉を含めて合計四人でした。開催地は広島でしたが、広島オフィス勤務なのは高倉だけで、他の受講者たちは全員九州から、講師の先生は東京から、わざわざ出張でいらしたらしいのです。人数比的には九州で開催した方がいいような、講師の負担を軽減するなら東京で開催した方がいいような、いずれにせよこの面子で広島開催になった経緯が全然分かりませんでしたが、「お前の所為だ」といった事実が出てきたら罪悪感で死にたくなっちゃいそうなので追及はしないでおきました。
 講師の先生は、恰幅のいいおじさんでした。ねぐせがそのままの頭髪、顎には無精髭、一目でビール腹だとわかる腹回り、こぎれいに見せているが襟も袖もよれているチェックシャツ、という見目、いかにも技術畑で生きてきた人というかんじ……、これは偏見ですね、ごめんなさい。自己紹介の段で「あと二年で定年なのでね、二年後を楽しみに生きてますよ」と仰っていたあたり、そろそろ還暦というご年齢なのでしょうが、「おじいさん」というより「おじさん」といった方がしっくりくる若々しさがありました。そも、昨今は人生百年時代なんて言いますし、そうなると、還暦を迎えようとする男性を「おじいさん」とする価値観は、もしや古臭くなりつつあるのかもしれません。
 前置きが長くなりました。このおじさん講師は経験も豊富で知識も深く、研修は大変分かりやすい進行でした。しかし、これは世の常ですが、完璧な人の粗はあるとひときわ際立って見えてしまうというものです。おじさん講師の唯一の粗は、受講者の名前をなかなか覚えないう点でした。自己紹介の時に急拵えをしたらしい座席表を、指名のたびにいちいち参照しているのです。
 先述の通り、受講者は高倉を入れて四人。うち、女性は高倉一人、他三人は男性という構成です。おじさん講師は、高倉のことは研修前から「高倉さん」と呼んでくださいましたが、他三人については手元の座席表を参照しながらでないと指名できないという状態が、研修修了時まで続いていました。参照しているということを気持ち程度に隠そうとしているあたりもまた、よりこの粗を際立たせてしまっていました。

 世の中には、相貌失認(失顔症)、という症状があるそうです。

 相貌失認(失顔症)は、人の顔が覚えられない、分からないという症状のことです。脳血管障害や外傷、脳炎などによって現れることがあります。症状に個人差はありますが、例えば両親や親友、自分の子どもを見てもそれが誰なのか分からなくなってしまったり、目の前にいる人の性別や年齢が全く分からなかったりするのです。

りたりこより引用

 人の顔を覚えられない、というのはそれはもうめちゃくちゃ不便です。かくいう高倉も人の顔を全然覚えることができません。受講者の顔と名前を一向に覚えてくれなかったおじさん講師には、親近感と同情を覚えます。

 高倉も以前、講師の仕事をしていました。小学生、中学生に文系科目を教える塾講師です。マンツーマン指導でなくクラス指導で、一クラス十人から三十人程度でした。教卓には座席表が置かれていて、高倉は常に座席表を見ながら授業をしていました。そうしないと、どこに誰が座っているのかが分からないからです。
 大人相手の研修講師ならまだしも、子供相手にものを教えるにあたって、子供の名前と顔を覚えないわけにはいきません。子供は、講師が自分のことを覚えてくれているという前提で話しかけてきますし、それを裏切ることは子供を傷つけることになります。
 子供を傷つけるわけにはいきませんが、そうは言っても顔はどうしても覚えられません。なので高倉は口八丁手八丁、手練手管を駆使して誤魔化しに誤魔化しまくりました。テキストに座席表を仕込んでみたり、ノールックで指名してから指名に反応した生徒に視線をやったり。教室外では敬意を表するように「お兄さん」「お姉さん」と呼んだりしました。授業の内容はそこそこに、誤魔化すことについて全力でした。
 そういう意味で、顔と名前が一致しないことへの対策が緩いおじさん講師のことが、ちょっと羨ましいような、怠慢を軽蔑したくなるような、そんなお門違いを考えなくもありません。高倉ならもっとうまくやります。しかし、おじさん講師の手管が見え据えてしまったあたり、もしかしたら高倉が教えていた生徒たちにも、高倉の手八丁はお見通しだったのかもしれません。もしもそうなら、これは果てしなく恥ずかしくて申し訳ない。

 相貌失認の高倉が講師をするのは無理がある、という理由で講師職を退きましたが、最近は、高倉は人の顔が覚えられないというわけではないのではないか、とも思い始めています。
 というのも、高倉は時間をかければ顔を覚えることができる場合もあるからです。中学生の頃、二年間一緒にクラリネットを吹いた友人の顔は今もはっきり思い出すことができます。大学生の頃の恋人の顔も覚えています。三年間勤めた以前の職場も、座席表がなくてもどこに誰が座っているのか、顔を見て分かるようになっていました。高橋一生と斎藤工の顔も見分けられます。

 顔を覚えることができた人たちのことを振り返ると、その人たちと過ごした環境が大変快適だったということに気付きます。楽しい時間を過ごせる場所では顔を上げることができます。顔を上げれば、人の顔がよく見えます。講師時代は誤魔化すことに必死で、顔を上げていなかったような気がします。
 高倉は猫背気味で、俯き加減が癖になっています。高倉が人の顔を覚えられないのは、相貌失認などという病ではなくて、単純に俯いていて顔が見えていない所為なのかもしれません。

 新現場のメンバーの顔と名前も、未だに一致していません。親切に話しかけてくれた人の名前を、盗み見た名札で認識するという姑息なことをいまだにやっています。姿勢を正し、視線を上げたなら、皆の顔をするすると覚えることができるようになるでしょうか。
 しかしここはIT企業なわけで、大概のことはチャットツールで完結するようになっています。高倉はメンバーの顔こそ覚えられていませんが、名前とチャットツールのアイコンであれば全員分覚えているのです。人の顔よりもアイコンの方が覚えやすいのは、やはり人の顔をよく見ておらず、PC画面ばかり見ているからでしょうか。
 とはいえ、高倉がちょっと姿勢を正したところで、一朝一夕に顔を覚えられるようになるとは思えません。他の業界ならいざ知らず、IT業界であればすべてのやりとりをチャットで完結させてもらう方が早いような気がしています。活字でやりとりして履歴を残しておけば、後の確認にも有用です。
 社内研修もチャットで完結するようにしたら、おじさん講師も名前と顔で苦労することもなくなるわけで、受講者もおじさん講師に名前を覚えてもらえないことに気付かずに済むわけです。顔を覚えられないことに罪悪感を覚えることも、覚えてもらえないことに傷つくこともない世界。それってちょっと、今よりも平和な世界なのでは……、と思うのは、いささか甘えが過ぎるでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?