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【エッセイ】嗚呼、美しきCENTURY

 信号待ちをしていると、交差点をトヨタの高級車「CENTURY」が横切った。高倉は車に明るくないが、それでもその車が高級車であることは一目でわかった。漆を思わせる深い黒の塗装の上に、凪いだ水面のような銀の線が一本、ぐるりにあしらわれている。機能性よりも見目の美しさを追求した四角っぽい輪郭、且つ車内空間を贅沢に確保するための胴長な車体はいかにも高級車だ。高倉は、普通車は長くなればなるほど高級だと思っているし、その最たるものがリムジンだと思っている。間違っていたら教えてほしい。
 その「CENTURY」を運転していたのはスーツ姿の若い男性で、後部座席に和装の老紳士が乗っていた。運転手と社長か、息子とご隠居か……。決めつけは良くないが、何にせよ上品で優雅で余裕のあるひとだという印象を受けた。
 「CENTURY」は出立ちもさることながら、所作も大変に高級というか、品のあるものだった。「CENTURY」は交差点を横切って片側二車線の大通りへ右折したのだが、丁度退勤ラッシュの時間帯ということもあって道路は混みに混んでいた。その上横断歩道に歩行者がひっきりなしに立ち入るので、車は思うように動けない。隣の車線につけた軽トラックは人が途切れるのを待ち侘びるように横断歩道ににじり寄っているが、「CENTURY」はというと優雅なもので、横断歩道から十分な距離をとった場所でじぃと待っている。歩行者が多少途切れたとて、車を捩じ込む気など全く無さそうだ。無理に進めば歩行者の邪魔になるということを心得ているのか、多少進んだところでそもそも道路が渋滞しているのだから何の差も生まないと知っているのか。ともあれ、品のある所作だ。信号が変わって車が流れ出すと、「CENTURY」は無駄のない動作で車列に溶け込み、夕暮れの大通りを滑り去ってゆく。

 高倉は高級品嗜好ではないし、ブランド品にも惹かれない。というか、ブランド品の何が良いのか分からない。GUCCIの財布もしまむらの財布も、金とカードが収納できるならそれでいいしそこに優劣は無い。強いて言えば手に馴染むかどうかとか、持っているカードの数と財布に用意されたカードポケットの数が合うかとか、そういう部分が個々の都合で優になったり劣になったりするわけで、他人と比較するようなものではない。だから、GUCCIの財布を持っていることのいったい何が自慢になるのか分からない。
 しかし、今日見た「CENTURY」で少し考えを改めた。ブランド品はブランド品たる理由があるのだ。それは美しさかもしれないし、機能性かもしれないし、耐久性かもしれない。「CENTURY」はかくも美しく優雅だった。ブランド品は軸となる価値観を徹底的に守り、追及し、顧客からの信頼と信用を勝ち取り続けてきたからこそ、持っているだけで自慢できるようなネームバリューを手に入れることができたのだろう。ブランドとは信用だ。

 それにしても、あの「CENTURY」は美しかった。高級ブランド品である故の美しさもあろうが、持ち主の品性も滲んでいるように見えた。優雅で上品、老紳士の穏やかな横顔に見えた精神的余裕。「CENTURY」のことも、自分の財力を誇示するためではなく、美しさと機能性を気に入って乗っている感があった。車体には泥跳ねの一つもなかったし、きっと大事に使っているのだろう。
 品性とはそういうものなのかもしれない。高級品だろうが何だろうが、自分が気に入ったものを気に入ったという理由ただ一点で愛し、末永く大切に使うこと。百年大事に使われた物品には付喪神が宿ると言うし、神が宿るほど大事に使われる物品はきっと神々しく美しい。品のある人が使っているものには品があるのだ。

 ところで、今日は高倉の家に新しいデスクが届いた。ブランド品ではないが、味のある木目が美しい天板をした良い机だ。世のデスクツアー動画が紹介するような立派なものではないのかもしれないが、高倉はこの机を末永く愛し、大事に使い続けようと思う。

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