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【エッセイ】フォークダンスを踊らないで

 炎上が怖い。

 社会は議論でできている。人は考える葦であり、社会は思考の坩堝だ。全く同じ思考をした人間は存在しない。しかし複数の人間が同じ場所で共存しなければならない以上、議論をして、落としどころを探る作業が必要だ。そうした面倒の死屍累々の上に、現代社会は鎮座している。
 対立しているのは必ずしも正義と悪ではない。マナーも道徳も倫理も、まるで社会正義のような顔をしてそこに居るが、時や場合や視点で揺らぐ頼りないものだ。社会の規則である法律だって、文面の解釈によって同じ事件を違う解決へ導いたりする。 
 正義も悪も存在しない。子供の頃無邪気に応援していた正義の味方も、見方を変えればただの思想を押し付けてくる暴力装置だったりする。正しい人間は、パンチで相手を吹き飛ばしたりしない。しかし、正義の味方はそう思っていない。悪いことをした人はパンチで吹き飛ばされても仕方がないと思っている。子供の頃の高倉もそう思っていた。

 インターネット社会は物騒なところで、毎日どこかで誰かが炎上している。車椅子で映画館に行ったエピソードが炎上し、黄色人種を無視するような振る舞いをした俳優が炎上し、AI絵師なる人々に至っては常に燃えているのではないだろうか。怒りを持って大声を上げている人が振りかざすのは、往々にして社会正義や道徳、モラル、マナー。最近の炎上は間違えた人間を袋叩きにするというよりは、火種に薪をくべて、キャンプファイヤーを囲みながら議論をしているかのようだ。
 炎上が怖い。高倉は法律を守っているし、現代社会でマジョリティと信じられているマナーやモラルや倫理観を心得ている、と自負している。自負しかできない。もしも偏っている部分があったとしても、それが偏っているかどうかを自分で判断するのは難しい。
 心がけて偏見をなくし、できるだけ広く高い視座を持つように心がけているが、所詮片田舎に住むちっぽけな人間一人、得られる視野なんてたかが知れている。高倉が「これは一般論だし社会正義だろう」と思って書いた文章が、実はそうでない可能性だってある。誰かの信念を貶める文章を書いてしまうかもしれないし、倫理観を酷く欠いた文章を公開してしまうかもしれない。高倉がキャンプファイヤーになる光景が、目に浮かぶ。

 議論は往々にして二項対立だ。AかBか。炎上を警戒して波風を立てない文章を書くとしたら、どちらの瀬にも立たず、「AもBも一理あるよね~」で済ませるのが無難だ。意見を持たなければ間違えることも無い。
 そして、そんな文章がクソほど退屈だということも分かっている。何の実りも無いし得るものも無い。ディベートの授業だって、最後に「どっちの意見も正しいんですよ、議論することが肝心なんです」などと宣う教師の台詞が一番退屈だ。
 数日前に書いた、「こんなの答えなんて無いし、考え続けるしか無くない?」で落とした文章の情けなさとつまらなさとクズさに泣ける。でもそうとしか書けなかった。だって炎上したくない。キャンプファイヤーになりたくない。燃え盛る高倉を囲む有識者たちがフォークダンスを踊りながら達者な議論を展開するのを見たくない。

 分かっている。分かっている。日和っている場合じゃない。好きになれない文章を書くくらいなら、思うままの文章を書いて、どんとこい炎上!と灯油を被って待つ方がいい。万が一高倉の文章が誰かを傷つけた日には、謝罪して筆を折る覚悟だってするべきだ。
 けれど、万人受けじゃないかもしれない文章を無防備にnoteに晒すのも、高倉が信じるマナーが咎めるところがある。一部を有料noteにしてしまうのも手だろうか。有料枠ってそういう使い方をしてもいいだろうか。お金を払って頂いてまで偏った思想を提供するというのも、それもどうなんだ? 駄目では?

 炎上が怖い。しかし、文章を書く以上腹をくくらなければならない。自分が許せるバランスを模索しつつ、しかし立つ瀬は必ず決めよう。二度とあんなnoteは書かない、と心に決めて、傍らに灯油缶を置く。

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