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【エッセイ】スキップで暮らしていますように

 病は気から、という言葉がある。気の持ちようが体調を左右するという諺だ。「だから病気なんてのは気のせいだ、甘えだ」と発展させるのはあまりにも時代錯誤だし炎上の火種だが、そう舵を切らなければ頷ける部分もある。

 映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の冒頭に、打ち捨てられた日本人形が映し出される。いかにも不気味な絵面だ。のちに、その日本人形の持ち主は主人公と同じ電車に乗って苦しそうに咳き込んでいた少女であったことが判明する。そして少女もまた、因習村の犠牲になって殺されてしまう。考察サイトによると、少女は肺の病気を患っており、電車に乗っていたのも病気を治しにゆく為であったらしい。因習村にまともな医療がある筈もなく、少女の病は結句治らなかった。劇中、魂ばかりになった少女が、こほ、と咳をする声が聞こえるとか聞こえないとか。
 せめて病は治ってくれよ、と嘆くフォロワーがいた。病が治った未来を望んだ先で、魂ばかりになっても尚咳は止まらないだなんて、そんなのあんまりじゃないか。全く、フォロワーの言うとおりだ。あまりに救いがなさすぎる。

 死んだ人間の時間は、死んだ時点で止まる。死に化粧をした祖父の顔を思い出す。笑った時の目じりに寄る皺が好きだった。真っ白い顔に、もう皺が増えることはない。
 人が死んだ先で魂ばかりになるのだとして、魂はどれほどの情報を持っていられるのだろうか。為人、経験、感情、未練。いずれにせよ、死んだ人間の時間は死んだ時点で止まるのだから、死後に新しい情報を得ることはないと考えるのが自然だろう。

 病が治らないまま死んだ人間は、魂ばかりになった先で、病から解放されるのだろうか。死んだ叔母は足が悪かった。母が「天国ではスキップしながら暮らしているといいな」と呟いていたのを覚えている。叔母がスキップの仕方を知っていたのか、高倉には分からない。因習村で死んだ少女はきっと、咳をせず暮らす日常を知らないままだった。

 知らないことは分からない。分からないことはできない。できなかったことは魂に刻まれず、死んでもできるようにはならないのではないだろうか。死んだところで、魂が病を患っていない状態を知らなければ、病が治ることもない。咳も止まらないしスキップもできない。

 仮説としては上々だが、夢も希望もあったものではない。あんまりだ。せめて、せめて切実に夢見たことくらいは、どうにか天国に持って行きたいものである。具体的にイメージができて、経験に勝るとも劣らない精度で空想できたなら、それくらいは魂に刻み込まれてくれやしないだろうか。
 病は必ずしも気から来るものではないが、病を死後に持って行くか否かくらいは、気合で選び取ってやりたいものだ。

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