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【読書記録】賢者と英雄

 嘆かわしいことに、知は不可逆である。本は、一度読んでしまうと読む前の自分にはもう戻れない。再読の楽しみもあるけれど、何も知らないまっさらな状態から読む鮮烈な衝撃には代えられない。
 アンディ・ウィアー著「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、頭をぶん殴って記憶を消してからもう一度読みたい一冊だ。

 以下、ネタバレです。未読の人は本当に本当に読まない方が良いです。本当です。この本は絶対事前情報ゼロで読んだ方が良いです。お願いします。プロジェクト・ヘイル・メアリーを読み切ってしまった世界でまた会いましょう。






地球上の全生命滅亡まで30年……。
全地球規模のプロジェクトが始動した!

グレースは、真っ白い奇妙な部屋で、たった一人で目を覚ました。ロボットアームに看護されながらずいぶん長く寝ていたようで、自分の名前も思い出せなかったが、推測するに、どうやらここは地球ではないらしい……。断片的によみがえる記憶と科学知識から、彼は少しずつ真実を導き出す。ここは宇宙船〈ヘイル・メアリー〉号――。
ペトロヴァ問題と呼ばれる災禍によって、太陽エネルギーが指数関数的に減少、存亡の危機に瀕した人類は「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を発動。遠く宇宙に向けて最後の希望となる恒星間宇宙船を放った……。

Amazonより引用

 宇宙戦艦ヤマトのクルーは、見送る人に笑顔で応えて銀河の果てのイスカンダルへ向かうし、ウルトラマンも地球防衛軍も地球を守る為ならば我が身を顧みない。地球を救う、などという大それたことに挑むのだから、自分の命なんて気にかけている場合じゃない。
 人類存亡をかけたミッション「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に参加するのは、各国の超有能な科学者たちだ。彼らもまた、命がけで人類救済の為に知恵を絞り汗水を垂らし、研究に研究を重ねる。今まで信じてきたモラルだって折る。地球温暖化を止めるべく活動をしていた気候科学者が、南極大陸の氷を全て溶かしメタンガスを開放するシーンは涙なしには読めなかった。
 主人公のグレースは、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に参画こそしているものの、他の科学者ほどの覚悟を持って此処に立っているわけではなかった。偶然と、知的好奇心。グレースは間違いなく一流の科学者で、中学校の教師にしておくには勿体ない知識と頭脳の持ち主だが、グレースにはその気がない。子供に理科を教える日常に満足している。子供の未来を守ることを願うが、その為に命までは捨てられない。世界の為に生きず、自分のために生きる、令和らしい人物像だと思う。
 自分のために生きるグレースが、恒星間宇宙船「ヘイル・メアリー」に乗って片道切符の宇宙旅行に繰り出す、というのは行動と人物像が合致しない。グレースの精神的成長と覚悟による勇敢な決断、という話ならよくある筋なのだけれど、全く違った。グレースは自分から宇宙船に乗ったわけではなく、昏睡状態にされて無理やり乗せられた、というのが真相だった。

 「プロジェクト・ヘイル・メアリー」の責任者であり、世界中の何より優先される権威を持つ女、ストラットは、誰よりも人類を救いたい人だった。人類を救う為なら人を拉致するし、著作権を踏み倒すし、宇宙船に乗りたくないとごねる適任者を監禁して昏睡状態にだってする。そしてすべてが終わった世界で監獄に入る覚悟を済ませている。
 ストラットは、メンバーの結束力を高める努力なんてしないし、駆け引きも馴れ合いもしない。そんなことをしている暇は無いのだと知っている。そんなものは何も救わないと知っている。
 この物語にはあらゆる分野の第一人者が登場する。ストラットは誰よりも強い権威を持った人物であると同時に、唯一、歴史学に明るい人物だった。人類の発展と衰退の歴史。破壊と戦争の歴史。生態系が壊れ、世界が飢餓に陥った時、人類が取る手段は殺戮と奪取なのだと知っている。人間は生き延びるために手を取れないほど愚かなのだと知っている。「プロジェクト・ヘイル・メアリー」が長引けば長引くほど、人は愚を極めてゆく。
 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。ストラットは間違いなく賢者だ。人類が滅亡しようというときに、国の機嫌を取るのも知的財産に気を配るのも時間の無駄なのだと分かっている。なりふり構わず世界を救った英雄が、平穏な世界では凶悪犯扱いされることも知っている。
 彼女がいなければ、人類は足掻く選択肢を得られなかった。間違いなく英雄だ。英雄なのに、歴史は彼女をそう語らないだろう。

 物語のラストでは、もとの明るさを取り戻した太陽が描かれるが、地球の顛末については言及されない。グレースには、その後の地球の様子を知る手段はない。しかし、グレースは間違いなく地球を救った英雄なわけで、世界中に彼の銅像がぼこぼこ立つだろう。
 そしてその世界の誰も、ストラットを称えないのだろう。

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