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【エッセイ】腕時計を壊して死にたい

 人間、生まれたからには死ぬもので、人生とは死ぬまでの暇つぶしに過ぎない。生きることに飽いたら死のうと思ってはいるが、そううまく行くとは限らないもので、例えば突然事故に遭ったり、殺人事件に巻き込まれたり、サメに食べられたりして、予定外のタイミングで死んでしまう可能性もある。死に時は必ずしも選べない。

 ならばせめて、死に様くらいはどうにか選べはしないだろうか。

 高倉にはかねてからの夢がある。死ぬ時は、腕時計を壊して死にたいのだ。
 「大きな古時計」という童謡をご存じだろうか。あまりにも有名なので歌詞の転記は自粛するが、あれだ、百年休まずにちくたくしてきたが、おじいさんが亡くなった時間で止まって、今はもう動かないその時計の歌だ。いつか平井堅先生がカバーしていたが、あれはもう大号泣ものだった。平井堅先生ってこういう大感動を与えてくれたかと思えばいきなり「鍵」とか歌うから怖い人だと思う。
 高倉はこの「大きな古時計」が大好きで、折あるごとに聴いたり歌ってみたりしている。百年間、おじいさんの生きた時間をちくたく刻んできた時計。百年、時計で百年って凄い時間だ。google先生で調べる限り、時計の耐用年数は大体十年、丁寧に使っても五十年だと言う。古時計は適切な環境に置かれ、丁寧な手入れを受けてきたに違いない。きっとおじいさんによって。
 おじいさんの死と同時に、おじいさんの時間を刻んできた時計もまた動きを止める、というのは、この上なく美しい死に様だと思う。自分の死が、自分の肉体だけのことに収まっていない。奇跡的なリンクだ。
 或いは、奇跡ではないのかもしれない。ずっと時計は止まりかけていて、おじいさんの手入れによって辛うじて生き延びていたのかもしれない。おじいさんが亡くなったから止まったのではなく、おじいさんの手入れを受けられなくなったから止まった。奇跡でも何でもなく、当然の帰結だ。
 ともあれ、時計は二度と動かない。もしかしたら直せば動くのかもしれないが、歌の中にはなんだかそういう気配はない。遺された人は、時計を見るたびにそれが止まった時のことを思い出し、止まる前に思いを馳せるだろう。きっと、古時計の側に置かれたロッキングチェアにゆらゆら座ったおじいさんのことを懐かしんだりする。
 時計、そう、時計だから良いのだ。これが例えば、椅子とか、コップとか、携帯電話ではいけない。「今はもう動かないそのiPhone」が寄り添った時間なんて高が知れている。常に生活のそばにいて時間を刻む符号、百年を超えても変わらないムーブメント。そんなもの、時計を置いて他にない。

 残念ながら、高倉の実家に古時計は無く、生まれたその日に買ってきてもらった時計もない。今高倉が暮らしている部屋には目覚まし機能がついた置き時計と、祖母の家から譲り受けた壁掛け時計があるが、どれも高倉の人生との関わりはまだまだ浅い。そもそも、残業過多に加えて最近は長期出張までさせられている高倉にとって、家の置き時計というのはあまり生活に密接でない。あの時計たちも、高倉が(或いは祖母が)選んだだけあってなかなか神経の図太そうな顔をしていて、高倉が死んだ程度ではへこたれなさそうだ。
 そこで、腕時計だ。腕時計なんて常に見る。間違いなく生活に寄り添っている。

 いつの何のドラマだったか忘れてしまったのだけれど、登場人物の男性がずっと壊れた腕時計をしているドラマがあった。ある日主人公が「どうして壊れた時計をつけてるの?買い替えないの?」といったことを尋ねると、「形見なんだ」と返ってくる。事故死した恋人が当時つけていた時計を、直さないままつけているのだ。時計は事故の時刻で止まっている。
 理想的すぎやしませんか……!!
 こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、最愛の人に遺せるものの中で、壊れた時計というのは最上級の呪物なんじゃないだろうか。ドラマに出てきたこの時計は、恐らく永遠に直されることはなくて、遺族をそこに縫い止め続ける。時計がそばにある限り、時計が動いていた頃にしか思いを馳せられず、未来を刻めない。彼の恋人がそれを望んだかは分からないが、彼はそれを望んでいる。そうすることでしか救われない。
 残念ながら高倉には呪うべき恋人も伴侶もいないので、時計を壊したところで誰にも何も残らない。だが、高倉の死体を見た人は、必ず高倉の死亡時刻を断言できて、これはかなり有用で、影響力が大きい。例えば高倉が他殺体で見つかったとしたら、高倉の死体を見つけた探偵は時計が示す時間を手がかりに推理を進めるだろうし、高倉を殺した犯人は、時計が示す時間のアリバイをでっち上げなければならない。例えば高倉が事故で死んだ場合、高倉の時計は事故が起きた時間の論拠の一になるだろう。多くの人が、高倉の壊れた時計を軸足に動くのだ。それもまた、一つの呪いではなかろうか。

 死ぬ瞬間に腕時計が壊れる。或いは死に際に叩き壊す。そんな死に様が望ましい。その瞬間に高倉の時間が止まったことを、時計が証明してくれる。誰もそれを疑わない。あわよくば、その事実に呪われてくれる。

 死ぬということは、時が止まるということではない。体の変化を成長と呼ぶなら、腐敗もまた成長だ。人は死後も成長し、時間は流れ続ける。
 それでも、どうか止まったと思って欲しい。高倉が認識しない高倉の変化を、記憶に留めないで欲しい。高倉の人生はここで終わり。この先の時間は無い。皆がそう信じていてくれるように、腕時計を壊して死にたい。

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