誹謗中傷についての考察
タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんが自殺したというニュースが出たことに驚いた。
でもすぐに、
SNSの誹謗中傷で傷ついたんだろうな、
という風に想像したのは私だけではないだろう。
とくに彼(彼女?)を追いかけているわけではないのでSNSアカウントも見たことなく、ちょこちょこネットニュースやNHKの番組でチラッと見る程度だ。
「女っぽい」けど男としてカップルでテレビに出て、男として結婚して、子どもの父親となって、しばらくしたら離婚したけど、親として同居しつづけ、格好がいきなり「女」になっていたり、こうやって文字だけ読むと、ずいぶん身勝手な生き方で、
「叩かれても仕方ない」
と思う人が多いだろうな、と思うからだ。
実際、ちょっとSNSをのぞけば、
「子どもがかわいそう」
「好き勝手生きて自業自得」
などなど、出るわ出るわ誹謗中傷が。
直接的に悪意をぶつけていたツイートなどは削除する人もいて、今度は削除する前のツイートをスクショしてさらしたり、なかなか物騒なことになっている。
まだまだこのニュースを知らない人も多いだろうから、このムーブメントはしばらく続くだろう。
今日、フジテレビのテラスハウスに出演していた木村花さんの裁判の冒頭陳述が始まった。
この事件は、SNSによる誹謗中傷が原因の自殺だったので、これを絡めて考える人も多いだろう。
しかしそんな中でも、
「やっぱり、死んだ方が悪い」
「自分が気持ち悪いと思うのは自由だ」
と言い続ける人もいる。
個人の主義主張は自由だとする、自由主義の世界観ではそれは当然の「権利」の一つだからだろう。
それを言ってしまえば、なんでも権利で済ませてしまうとは思うが・・・。
自由な国で生きる以上、こういったことがなくならないということは、受け入れておかなければならない真理の一つだろう。
それにしても、誹謗中傷する側としては、
「こんなことで死ぬなよ」
「自殺するなんて無責任」
という風な意見で一致しているのは興味深い。
いじめっ子がいじめている子によく言うセリフじゃないかと。
どちらも、欠けているのは相手の側に立った視点だ。
「自分だったら死なない」と平気で言う人間は、基本的にその視点が欠けている。
いきなり死ぬ人は、衝動的に死ぬくらい精神的に追いつめられている。
でも、「自分だったら」と客観的に考えられる時点で、精神的に追いつめられているわけではないだろう?
そういう、客観的な視点を持てない心理状態だからこそ、死を選ぶのだ。
「自分だったら」なんて、そういう現実を想像していない人の言うセリフだ。
そもそも、現実的に、コメントだけではなくDMでも
「死ね」
とか
「消えろ」
などの言葉が毎日のように来ても、本当にそう言い切れるだろうか?
そういうような背景があるんだろうな、ということは考えたりしないので、「自分だったら」と平気で言えるのだ。
もしくは、そうやって口撃され続けても、
「テメエが死ね!」
と反撃できる人だったら、傷つくこともないかもしれない。
だから逆に、誹謗中傷で死を選ぶ人は、そもそも、そういう風に反撃できない人である可能性が高い。
ryuchellも、NHKの番組でのコメントを見ている限り、そういう風に反撃できない人なんだと思う。
優しすぎるがゆえに、我を貫けず生きて来て、自我に目覚め、女になろうとしたら叩かれたのかもしれない。
逆に、
「テメエが死ね!」
と反撃できる人は、反撃できない人の気持ちがわからないので、反撃しないで死を選ぶことを「逃げている」と思うのだろう。
しかしそれでは、相手の立場になって考えることはできても、相手の身になって考えることはできていない。
それでは、死を選ぶ人の心理など理解できるはずもない。
自分と違う人間なのに、自分のまま考えているから、どこか的外れなのにそれに気づかずに、ずーっと変わらずその考え方を続けるのだ。
ある種、慣性の法則みたいなものだ。
何が言いたいかというと、残念ながらそういった人間もいるということだ。
なぜなら、他者を理解することよりも、他者を自分の枠組みに当てはめる方が簡単だからだ。
そして、それが正しいと思い、行動する方が楽なのだ。
実際に、そういう風に生きている、経済的成功者の意見になびく。
昨日、経済産業省のトランスジェンダーの職員が最高裁で勝訴したニュースをやっていた。
私はLGBTQに対して肩入れしていないタイプの人間だが、ryuchellと同じく、性別の問題が絡むニュースだけに非常にタイムリーで示唆に富む裁判だった。
判決文の経過を見て驚いたが、この職員は、経産省で働き始めるより前の1998年に女性ホルモンの投与、1999年に性同一性障害の診断を受け、2006年までになにがしかの手術(豊胸?)を受け、2008年には女性として生きるようになったと。
そして、2010年に今の職場で、女性の格好をし始めることについて説明会を開いたにもかかわらず、数名の女性職員が「なんかイヤかな」的な態度をとり、たった1名の女性職員が「他の階のトイレも使う」と言ったため、上司がその女性職員に忖度して、当該職員には上下合わせて3階分の女子トイレの使用を禁止したとか。
そもそも職場内の話で、当該職員がどういう人か知っているはずだ。
「全員」じゃなく、「数名」が気になるなら、その人たちが納得が行くまで議論させるべきだった、というのがそもそもの問題だろうに、このニュースに飛びついたSNSの住人たちは、ニュース動画を見ても明らかに「女性」として生活したいというのが明確な職員に対して、上辺だけをあげつらい、
「女装した男が女子トイレや女湯に入ってもOKになる」
などとトンチンカンなことを言っていたが、これも
「こんなワガママな主張が通るんだ」
「このせいで公共のトイレも女子トイレに男が入ってくるんだ」
というような誹謗中傷になっていく。
もちろん、裁判所は(世間とずれているときもあるかもしれないが)一般人よりバカではないので、こういった感情で動く一般人のことも考慮して、判決の最後に、
と、「公共のトイレの話は別ですよ」とわざわざ入れているし、原告もケースバイケースとしたことを評価出来るとコメントしている。
しかし、誹謗中傷する人は、こういう細かい部分を見ることはない。
ここから言えることは、簡単に考える人間が、誹謗中傷を生むのだ。
でもこれは、誰か、というわけでもなく、ある事案に限って、ということもある。考えたくないものは、簡単に考えるのが人間だからだ。
特に、自分と関係ないことほど、簡単に考える(処理する)ようになっているのが脳なので、ある部分では仕方がない、変えられない現実なのだ。
だから、誹謗中傷がなくなることは永遠にない。
でも、逆に言えば、誹謗中傷への対策としては、簡単に考えた意見が誹謗中傷になって行くわけだから、
「何も知らないバカは黙ってろ」
と心の中で思い続けることが大事なのかもしれない。
少なくとも私はそうやって生きている。
でも、それができない人が心を病み、命を絶つのだろう。
「強くあれ」とは言わない。
すべての人が強く生きることはできないのも現実だからだ。
でも、人として、これだけは言いたい。
悪意に対しては、怒りをおぼえてもいい。
「罪を憎んで人を憎まず」
と思うことは何も悪いことではないのだから。
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