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「レジ袋」という名の既得権

先日、以前大臣をクビになった桜田義孝議員が、旧知の人間が環境大臣になったことをいいことに、レジ袋の賛否も含めて要望したよ、という仕事アピールツイートがあり、それに対して盛り上がりを見せていることに、フジテレビのニュース番組で加藤綾子アナが、

「せっかく始めたのにすぐやめてしまうのでは、何のために始めたかわからない」

とコメントしたというニュースがあった。

これを読んだ感想として、少なくとも私は

「加藤アナ、よくぞ言ったな」

と思ったのですが、どうもネット・SNSの世界で目立った意見としては「レジ袋有料化廃止」の流れができたと喜んだり、小泉進次郎をこき下ろす材料にしたり、廃止すれば岸田内閣の支持率がこれで上がるというトンデモな意見があったり、少なくともネットという、人間の本性がむき出しになりやすい社会では、こういう本音の意見もあるんだなとしみじみ。

まぁでも、人間は自分の立場でしか物を言わない人が多いものだから、冷静に考えればこういうこともあるんだなと思いつつも、どうにもなんか、違和感を感じるのも事実。

違和感の正体

それは、私が30年も前の小学生の時分から環境問題に興味を持っていたからというのもあるし、20年くらい前に何度も海外に行った時もすでに紙袋への転換とか「袋有料化」の考え方が浸透していたし、私の住む名古屋では10年以上前からスーパーを中心にレジ袋は有料化されていたし、

少なくとも私の常識では、
レジ袋有料化なんて、今ごろ言ってんの?と思っていたからだと思います。

むしろ、やってなかったんだ!?と。

そっちの方が驚き。

実際、レジ袋が有料化している自治体は全国にもいくつかあるし、私が大学時代に都市行政や環境について学ぶことが多かったことを差し引いても、それから20年、赤ちゃんが大人になるほどの時間が経ってるわけで。

世界では少なくとも、日本より「いろいろ遅れてそうに見える」国でもやっていることを、今ごろやっている、というのが客観的な事実。

なので、「レジ袋有料化の廃案」を求める人がこんなに声高に声を上げることに驚いた。

少なくとも、私にとってはそんな感じの印象。申し訳ないけど。

なんでそんなに、この変化を受け入れられないんだろうと。

どうしてそんなに、レジ袋が無料であることが大事なのだろうと。

たかだか1円とか3円とかなのに。

なぜレジ袋を無料で出していたか?

というと、
何でもかんでも「レジ袋反対!ビニール袋使うな!」

・・・ということを思っている人間のように思われるかもしれませんが、私も別に、買い物に行った時にエコバッグを忘れることもあり、車に取りに戻る時もあれば、レジ袋をもらう(正確には「買う」)こともあります。

たとえば、アイスを差し入れしようとした時とか、ポリ袋は便利ですし、いくらエコバッグ派だからといって、ニンニクの入った青菜炒めをポリ袋に入れずエコバッグに入れる勇気はない。
(ちなみに今は塩化ビニルを使ってないのでビニール袋とは言いません)

それに、レジ袋が有料化される前から、袋なんかいらない時でも、店員さんに勝手に袋に入れられて「ゴミが増えるなぁ」と思ってた人って結構いると思うんですよ。

あの、お店で「出口までお持ちします」と同様に、過剰なサービスというのは言いすぎかもしれませんが、何でもかんでも「袋に入れてあげるのがサービス」になっていたのはあったと思います。

実際、私が某ファーストフード店で働いていた時は、商品を紙袋に入れた後に「もちやすい手提げのポリ袋に入れてあげるべき」だと、それがいいサービスだと思っていましたし、レジ袋に入れとけば怒られることもない
そんなだから、「コスト削減のため、あまりレジ袋を使うな」という会社の指示に「お客さんの気持ちになれよ」と反発したりもしていました。

コンビニで、プリン一つを買ってもレジ袋に勝手に入れてくれたのも、それと同じ発想ですよね。
実際には他のコンビニでプリンを買って、一つだけ足りないからそのコンビニに寄ったんだとしても、袋がもれなくついてきたわけです。

基本、断ってましたが、それでもマッハで袋に入れる「サービスの良い」定員さんもいました。ゴミ袋にも使えないような小さい袋もあったけど。

ある部分では、日本人的「おもてなし」の精神の表れというか。

そしてそういう文化が、完全に根付いちゃったわけです。

消費者が、それを「当たり前」と思うようになったし、
むしろ逆に、そうしないと「不親切」と映るようになってしまった

消費者の声を恐れるようになったのもあるでしょう。

「レジ袋」は誰のためのものか?

そこで視点を変え、今よりもっと、レジ袋の普及してない、40~50年前の、サザエさんやドラえもんの時代に戻って考えてみます。

サザエさんたちは、「買い物カゴ」を手に提げて買い物に行っていたんです(最近のは知らんけど)。

店側がお金を出して買った(当時は)ビニール袋をタダでつける、なんてことはなかったわけですよね。

なんなら、商品を新聞紙に包んでいた。新聞紙ですよ新聞紙。いわばゴミですよ? それに魚をハダカで入れていた・・・そんな時代もありました。

というか、コンビニどころかスーパーそのものがなかったですし、買い物とは、テレビ「はじめてのおつかい」のように、

八百屋さんで○○を、
魚屋さんで○○を、
肉屋さんで○○を、

と買うものをある程度考えて行くのが基本だったので、必要以上のものを買うこともなかった

それが1980年代以降、生鮮品だけでなく、ストックの効くパッケージ商品が増え、買い物も徒歩ではなく車などを使うようになることで、「欲しいものを買えばいい」「必要以上に買わせてもいい」という商売のカタチが生まれると、袋はどんどん増やせた方がよくなったわけですよね。

その方が合理的だったわけです。

店は袋代がかかるけど、今まで以上に儲かるし、
客も「たくさん買った分、袋もタダでついて来るのが当たり前」となる。

そして、我々はいつしかそれが、当たり前になった。

当たり前すぎて、疑うことすらしないくらいに。

それはつまり、

客はレジ袋をタダでもらえる権利がある

と思うようになったということです。

つまり、レジ袋は「客のもの」なんです。

レジ袋はもらえるものだという「既得権」

レジ袋有料化に怒っている人たちは、

そういった「既得権」を手放さなくてはならないことに怒っているのです。

「ゴミ袋として再利用する」
というのも、本来、ゴミになるはずだったものをゴミ袋として使う権利があると思っているからです。ゴミ袋にお金なんて払いたくないですからね。

「いちいちレジ袋が必要か聞かれるのがイヤ」
というのも、本来、レジ袋は客に無償で提供するべきものなのに、いちいち確認してくるなんて、サービスの姿勢としておかしいと思うからですね。

「エコバッグを持ち歩くのがめんどう」
というのも、エコバッグを持ち歩くのはカッコ悪いし荷物になる、そういうことを客にさせる方がおかしいと思うからですね。

他にもいろいろ意見はあると思いますが、総じて言えるのは、やはり、

「レジ袋は客のものである」

という既得権にもとづく発想です。

既得権というのはその人にとっての「当たり前」なので、その前提に立って、自分たちの正当な権利を守るために論理を展開するようになります。

そうなるともっと話は大きくなって、

「レジ袋廃止は環境効果がない」
「レジ袋はそもそも石油の無駄をなくしている」
「レジ袋廃止すると万引が増えた」

という、その権利の主張にプラスの情報だけを見るようになります。
(ちなみに独裁者はこういうのを上手く利用するので気をつけてね)

そしてその光景は、たとえば環境意識の高い人や、すでにレジ袋有料化してそれが文化として根付いている地域や国の人たちのように、それを既得権と思っていない人、既得権を手放した人からすると、とてもおかしな主張に見えるのです。

離婚訴訟がもめるのは、まったく違う方向を見た人同士が自分の主張をくり広げるからですが、まさにそれと同じことが、この議論でも起こります。

議論がかみ合うわけがない。

小泉進次郎の涙と既得権

じゃぁどうするかというと、「決める」しかないんです。

そして「決めた」のが、小泉進次郎元環境大臣。

「レジ袋はタダでもらえるものである」

という国民の持つ既得権を、奪ったのです。

個人的には「遅すぎだろ」と思うことではありましたが、他の人が決められなかったことを、既得権を主張する人たちを一蹴し、「決めた」のです。

くしくもそれは、郵政民営化を掲げ、郵政事業にまつわる「既得権益」を打破した、父・小泉純一郎元総理と同じような、決断。

反対意見は出ることはわかっている。

でも、誰かが決めなければいけない。

それをやった。

他国から10年20年遅れていた行政を、やっと進めた。誰も決められなかったことを、決めた。

だから、端から見たら、辞めるときに「なんでアイツ泣いてんの?」となったかもしれないけど、これは長年止まっていた行政を一歩進めることができたという本人の自負であり、だからこそ、継続を願ったからでしょう。

「政治信条がある政治家」らしい姿です。
(でも泣くなよとは思う、まだ先はあるんだから)

そこへ行くと、立身出世のために政治家になり、USBメモリどころかPCも使ったことがないサイバー大臣となり世界中から失笑を買い、失言で大臣を首になった桜田議員は、支持者にいい顔をしたいだけなんじゃないかとすら思えるアクションで、二度と大臣になることはないなと思ったりもしました。

実際、当の山口環境大臣はレジ袋有料化を安易に見直すつもりはないと言っていますしね。

レジ袋有料化は、新しい時代の入口である

SDGsが各教科書にも載り、そんな時代の流れの中でレジ袋有料化が廃止になることは世界の潮流から言ってありえないし、むしろこの「変化」を受け入れないでいられるのは難しいだろうと。

たとえば、小売店からすると、これまで「店側が払っていたコスト」を客側に転じることで、確実に得をしています。

もちろん、万引が増えたりもしますが、この、見えなかったコスト(シャドーコスト)が見えるのは大きな変化です。

実際、よくテレビに出てくるスーパーアキダイの社長は、「レジ袋代が年間100万円削減できた」と言っていました。

今までは、それだけ店が「持ち出し」していたわけです。

それにそもそも、アキダイの社長さんは以前、他の地域ではレジ袋有料化している時代なのに、「お客さんが困るから」とレジ袋有料化に消極的な発言をしていたと記憶していますが、人々の「習慣」が変われば、こういう風に受け入れて、メリットにも気づくことが出来るワケです。

それが、「レジ袋はお客さんに無償で提供するものだ」と思い続けていれば、自分の首をしめるだけなのです。

「払ってくれるんだから、払ってもらおう。なんなら束を買ってもらおう」

くらいが小売りの発想であるべきではないでしょうか?
(環境的には束も買うべきでもないですが、商売としてはね)

まとめ:ただより高いものはない

ちなみに私が「レジ袋有料でもいいじゃん」と思うのは、

環境問題、特にゴミを減らす問題を少し勉強すれば、今日日子どもでも、「減らす(Reduce)・再利用する(Reuse)・生まれ変わらせる(Recycle)」の「3R」は基本中の基本として教えられていますが、一番最初のReduceができるのは環境によいことであると同時に、自分の家の「ムダなもの」が増えないことは実に気持ちがいいことだからです。

実際、レジ袋有料化して、ポリ袋がたまりにくくなったので、部屋はスッキリしやすいですし、「ゴミ袋に使えるからエコだ」という意見もありますが、正直、規格が違うポリ袋をゴミ袋として使うのは決して合理的とは言えません

そんなんだったら大人しく、束になっているポリ袋を買って使った方が、

・いつも同じ容量なのでどれくらい入るか計算しやすい
・ゴミ箱のサイズに合わせやすい
・パッケージでまとまっていて、定置管理がしやすい
・新品の袋の方が場所を取らない
・新品の袋の方が残量がわかる
・しわが寄っていないので畳みやすく、持ち運びしやすい

などなど、とても合理的な面がたくさんあります

「レジ袋は犬の排泄物を捨てるのに使う」という人もいますが、犬のトイレシートを捨てる袋は、箱入りのポリ袋の方が取り出しやすいし、散歩中に出た犬のウンチを持ち帰るのは、消臭力がハンパないBOS袋の右に出るものはありません(実際にはポイ太君+BOSで運用)。

「レジ袋はタダでもらえて便利」という既得権にしばられた考え方だと、こういう発想ができません。

最近、日本の企業の生産性が悪いことを語られますが、レジ袋を再利用することほど生産性の悪いことはありません。

コストをかけるところはかけて、生産性を上げる

その発想ができないから、いつまでも、「タダなもの」を利用して生産性を上げようとしています。

「サービス残業」しかり、
「気合いや根性」しかり、
「無意味なミーティング」しかり、
「口だけの働き改革」しかり、

そんなんで生産性が上がるはずがありません。

むしろ、そんなんだから、上がらないのです。


「ただより高いものはない」

という言葉をわれわれ日本人はよく知っているのに、こと「レジ袋」に関しては、それを考えることをしていない人が多くいた、ということですね。

だからこそ今一度、この言葉を胸に、もう一度レジ袋を無料でもらうことは、見えないところで何が起きているかを考えるきっかけにしていただけたらなと思いました。

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