20240608 近況
・耳がだいぶ回復してきた。相変わらずイヤホンをするとmp3みたいな音質になる(メカニズムがわからないがそうとしかいいようがない不思議)けれども、両耳で聴こえが偏ることはほとんど解消され、日常会話も静かな空間であればそれほどストレスにはなっていない。
真面目な話、もしも音楽が取り上げられてしまったら俺はなんのために生きていけばいいかがこれまでになく切迫した問題として立ち上がってきていた。その日はいきなり明日来るかもしれないし、来ないかもしれない。軸足をたったふたつの鼓膜、ひとつの身体に置いておくのもよくよく考えればそれはそれでギャンブルのようなものだと知ってはいるのだけれど。とにかく未来ばかり見ると不安になる。
それにしてもかなり苦痛を強いられたここ3週間ほどだった。二度と鼻を強くかまないと誓う。
・ここしばらく、改めて4月末にリリースした自作についても考えていた。学生として過ごしてきた自分にまとわりつく亡霊を成仏させるための祈りだと息巻いて(今思えば息巻いて)いたが、そうして自分のなかに手に入れたのは、やはり自分のなかにはなにも無いという高校生の時分から続く空虚な感覚だった。手に入れ直した、といったほうが適切であるほど、言ってしまえばなにも変わりはしなかった。
それだけではなく、ごく個人的な思い出とそれを形成する人間についての記憶を言葉に落とし込んでしまったことで、自分を含めてそれに関わる人間を余計に深く傷付けてしまったのではないかと半ば疑い半ば確信するような暴力性もまた、リリースを経てはじめて自覚した。
いわゆる、創作が暴力性を孕む、という論説を知っていても身体的に理解していなかった。そのことがのしかかっていて、途方に暮れてしまっている。
・音楽からしばらく離れなければならないという砂漠の渇きを癒したい一心で、貪るようになにかしらを読んでいる。ジェニー・エルペンベック、ガブリエル・ガルシア=マルケスをはじめて読んだ。俺が手に取るくらい著名である時点でもはや当たり前に素晴らしい作家であることはほとんど確約されているようなものかもしれないが、二人ともとても良かった。『行く、行った、行ってしまった』は今年読んだ作品のなかでも特に印象に残った。もちろんマルケスの中短編集も面白かった。やはり編訳者あっての、だ。
加えて、古本の「象の消滅」を落手した。いろいろな出会いと偶然を経由して、結果的に村上春樹は良くも悪くも今の自分に多大な影響を与えてくれていると思う。
『ねじまき鳥〜』の最初のシーンは初読からどれだけ経っても、未だに新鮮な驚きをもって想像のスクリーンに投影されるし、『中国行きのスロウボート』の読後感もいやに鮮明なまま憶えている。あらためて珠玉だ、とおもう。一度、誰かと話してみたい。