陽の当たらない不幸と陽の当たる不幸
私の妹は中学生の時、半身不随になった。
脳梗塞だ。
朝起きたら、左半身が動かなかった。発語も不明瞭。両親はただごとではない様子だったが、私は学校へと送り出された。
帰ったら妹は入院していた。
私は高校生のガキで世間知らずだったので、事の重大さがまったく分かってなかった。
かれこれもう30年以上経つが、まだ障害は残っている。
ただ健常者以上にバリバリ働くため、年収はおそらく私より多い。私の実家は資産家だ。世の中とは良くしたもので、労なく富を手にすると必ずその見返りがくる。おそらくそのせいだろう。私を含めていま私の実家で五体満足な者はいない。全員、何らかの身体的障害を背負っている。
菅谷明義インストラクターの死も唐突だった。つい数日前まで一緒に楽しくシステマをやっていたのに、2015年5月11日に突然クモ膜下出血で帰らぬ人となった。その奥さんはいきなり伴侶を失い、一人で放り出されることになった。クラファンという発想があれば、奥さんの当面の生活費や新生活を支援するためにお金を募ることができたかも知れない。でも香典を多めに包むくらいで、その発想は浮かばなかった。
世の中の人はみな、そこそこ不幸だ。そう思うととても楽になる。「みんな幸せそうだ、自分だけが不幸」という自意識過剰な思い込みから脱却できるからだ。
どれだけ幸せそうに見える人でも、なんらかの不幸は抱えている。
ただ最近はSNSのおかげでキラキラした面ばかりが強調されているけれども、よくよく話をきけば、誰もがそこそこ不幸で、そこそこ幸せなのだ。
私は震災の時にボランティア活動に携わったが、ある時やめた。
震災の被災者は確かに不幸かも知れない。
でも震災に関係なく、不運な事故などで不幸な目にあっている人はいる。子どもが病んだり、自分が病んだり、伴侶が病んだり、親が病んだり。
なぜ震災被災者は支援を受けて、彼らが受けられないのか。突発的な不可抗力という意味では同じではないか。そこで「陽の当たる不幸」と「陽の当たらない不幸」があることに遅まきながら気づいた。
マスコミが騒ぎ、同情を煽る「陽の当たる不幸」はきっと誰かが支援する。でも「陽の当たらない不幸」はどうか。本当に支援すべきはそちらの方ではないか。誰にも知られず苦しみ、ひっそりと消えていく者ではないのか。
だけどそういう人の支援は難しい。そもそも見つけるのが難しいし、見つけても専門的なスキルが必要だったりする。あとは精神的な障壁も大きい。若くて可愛げのある若者が健気に頑張っているのと、キモいおっさんが悶え苦しんでいるのとではどちらを支援する気になるだろうか。
本当に支援が必要なのは後者だ。でも多くの人は前者を支援する。クラファンでもやれば10倍くらい差がつくだろう。
その偏見はもう致し方ない。だから専門家の手に委ねたほうが良い。もちろん完璧ではないだろうが、専門家に任せたほうがより平等に的確な支援を行き渡らせてくれるだろう。少なくとも私が直接行動するよりも、ずっと効率が良い。
私というかシステマ東京では特に表に出さないけれども、ちょくちょく各方面に寄付を送っている。セミナーやウェビナーで収入が多かった時などは、だいたい何らかの寄付をしている。
なぜそうするかと言われたら、なんとなく快感なのですよね。寄付というのは思いのほか快感。良いことをした気になるというのとも、少し違う。寄付をするとまたしたいと思うし、その程度の金額しか寄付できない自分を恥じて、もっと寄付できるように頑張ろうとおもう。税金についても実はその延長で考えているので、それほど苦ではない。むしろもっと払えるように頑張ろうと思う。税金が富の再配布を目的としたものなら、寄付は自主的な上乗せだ。
先日のブレンダンのチャリティイベントに前後して、チャリティについて色々と考えた。ブレンダンのは確かに大変だろう。妹とほぼ同じ症状だから、よく分かる。でも不幸中の幸いで「陽の当たる不幸」だ。だから多くの支援が集まる。ブレンダンには始めてトロントに行った際にシャベルの使い方を手取り足取り教わったりしたので恩義がある。だからなんとか良い方に向かってほしいと心底思う。
ブレンダンはコロナ関連で隔離されたりと、たいへんな闘病生活を送っているそうだ。なのでぜひ支援してもらいたい。
でもこれをきっかけに、「陽の当たらない不幸」にも目を向けてもらえればと思う。困っている人は常にいる。ありきたりすぎて誰にも顧みられない不幸ほど、支援が必要なのではないかと思う。でも前述の通り、それを実施するのは困難だ。だから支援に携わる人を支援するのが効率的だ。
先日は若林理砂さんがこんなつぶやきを投稿した。
こういう行動ができる人は素晴らしいと思う。
私は電車の「優先席」とか単なる欺瞞だと考える人間だ。なぜ一部の限られた席だけで弱い人が優先されるのだろう。全席、優先席であるべきではないかと思う。
システマによって体と心が強くなれば余裕が生まれる。その余裕があればこそ、困っている人に手を差し伸べることができる。ビル・ゲイツやザッカーバーグが多額を投じて慈善活動をしているけども、それは何も彼らが聖人君子だからではない。金があるからだ。有り余った金も自分で稼いだ金だ。それが税金でぶんどられてワケわからない使い方をされるなら、困っている人に確実に届くように寄付をしたほうがマシということだろう。
つまり余裕がなければ、人を思いやることができない。
精神的、体力的な余裕がなければ人に手を差し伸べることはできない。
金銭的余裕がなければ、寄付をすることはできない。
私はもっともっと余裕をもっと、もっともっとたくさん寄付したい。
娘がお世話になっているYMCAの施設が目標額120万円の寄付を募っていた。「そのくらい、オレが払ってやるよ」とポンと出せたらどれだけかっこいいか。そう。寄付とはカッコつけなのだ。
※東山荘ではナラ枯れの伐採の基金を募集中。サイトには掲載されてませんが、追加募集をしています。
少子高齢化が進む日本では、やはり子どもやひとり親支援が急務だ。セーフティーネットが整い、若い人がもっと気軽に子どもをもうけられるようになれば、日本の劣化も多少は緩和されるだろう。そういうとこにポンと多額の寄付ができたらとてもとてもカッコいい。
寄付って、突き詰めるとカッコいいものだと思う。単なるファッションであり、自己満足。徳でも陰徳でもなんでもない。別に天国に富を積まなくたって良い。正義感でも道徳心でもなく、単にカッコつけたいだけ。カッコよければそれでいいし、カッコいいかどうかを決めるのは自分自身。だからこそ最高にこだわりたい。
誰も気付いていない盲点を見つけて、そこにドカンと寄付をする。それが至上だ。他の誰にもできない、自分だけのファッションという感じがする。
チャリティについての話。
書こうか書くまいか迷ったけど、つい書いてしまった。
寄付ってのはカッコいいんだよ。そのカッコよさは人それぞれ。自分なりのカッコよさを追求すればいいんだ。
つまり寄付はロックなのだ。
陽の当たるところに集まるのは簡単だ。ヒマワリだって太陽の方を向く。
真にカッコいい者は、陽の当たらないところに光を当てる。
なぜって? それは
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