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幸福について駄弁る③

僕は自分の心が荒ぶりがちなのはよくわかっていて、それはド治安の悪い中学校で唐突に喧嘩をふっかけられることに対応するために仕方なく進化(退化?)したものと思っているのですが、一度身につけてしまったその荒さをunlearnするのがなかなか至難の業でして。

僕の父親も相当に危機意識の強い男でして、常に内部でアラートが鳴りっぱなしなのはよくわかっていました。口癖は「平和ボケしおって」で、常に悪い事態に備えることを考えている戦士のような男でした。

そんな状況だったからか、父は若いころに結核を患ったにも拘わらずヘビースモーカーで、結局、肺癌で亡くなりました。煙草は彼の中のアラートを落ち着かせるために必要だったのかもしれません。おかげで、僕は三十にして喪主を務めました。

僕は自分の心の波を抑えるため、七〜八年前からマインドフルネスに取り組んでいますが、サボることも多いせいか、なかなか実にはなっていません。これからも精進です。

さて、前回前々回に引き続いて幸福について考えますが、今回のダシ(失礼)はより具体的な「幸福になる方法」を著した本です。端的に言って、不幸を治療するための方法論です。

 原始の心は「殺されない」ための装置

本書によると、人間が心を獲得したのは、他の生き物によって殺されないためだったそうです。だから、食べ物がより多くあれば安心し、武器がより良ければ安心するようにできているわけです。

逆に言えば、食べ物が少ないと不安になり、武器が他者より劣っていたら焦燥を感じるわけです。生き残るための戦略としての心が、他者との比較、他者への攻撃、不足への執着、起こってもいない最悪の事態を考えることに繋がるということだそうです。

こうなると進化は犯罪だ。殺されないことを常に念頭に置く私たちの心は、ほとんどすべての状況に危険を感じてしまう。不機嫌な伴侶、支配的な上司、駐車違反のチケット、新しい仕事、交通渋滞、銀行の長い列、長期のローン、鏡の中の冴えない自分など。脅威は不快な思考やイメージといった形で心そのものからもたらされる。これらは何一つ命を脅かすものではない。しかし私たちの脳と身体はそう捉えてしまうのだ。
(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』)

こういう意味では、不良中学の治安の悪さに適合した僕の精神性は、文明人のそれというよりは原始人のそれに回帰したと言えそうです(自慢になりません)。

かねがね不思議ではあったんですよね。そもそも脳という機関自体、胃や腸という消化器官に食べ物をうまく投げ込むために、手足を上手に動かせるようにと進化したものです。また、天敵から逃げるために耳目からの情報を判断し、やはり手足を動かすために使用される機関です。そう考えると、脳は身体の従属物です。

胃腸や手足のオマケたる脳という後輩が、いつの間にか勝手に悩み苦しんで自殺を選んでしまったりするのです。これには胃腸先輩も困ってしまうはずです。そう考えると、脳って相当意味のわからない機関です。

不安である自分が不安である

悪いことが起こると不安になる。それは当たり前のことです。それへの対応策がとられなければならないからです。飛んできた石が身体に当たれば痛い。当たり前です。

しかし、本書で悪あがきのスイッチと呼ばれるものがオンになっている人は、自分が不安になったことに対して怒り、自分が不安になったことに対して不安になるといいます。

これでは、石が当たった身体の箇所が痛いからと、自分でその箇所に石をぶつけ続けるがごとくです。意味がわかりません。しかし、不安によって不安になることは多くの人が経験します。

不安自体は悪いものではないと本書は言っています。ホラー映画の存在が証明するように、人は不安を楽しむことができるし、不安から何かを学ぶこともできます。そこには、よい不安、悪い不安があるということだそうです。

何度も繰り返し不安が訪れることもあります。おまけに、不安を止めようとアレコレすることが逆効果なこともあります。

本書では不安から逃げる(煙草を吸うなど)ことと、不安と闘う(カラ元気など)ことが対抗策として挙げられていますが、それらは結局、不安には勝てないか、もしくは悪い効果が待っていると述べます。 

1.多くの時間とエネルギーを使う割に、長期的には効果が薄い
2.追いやった思考・感情はすぐに戻ってきてしまうため、自分は愚か
  で不完全で弱いと考えてしまう
3.短期的に不快感を封じ込める戦略の多くは、長期的には生活の質を
  損なう

波は止められないがサーフィンはできるということわざがあるそうです。どうやら、不安は解決しようとせずに乗りこなそう、ということのようです。

ほんまにそんなことできるんかな?(素)

それはほんとうに「起こったこと」か?

本書では、「思考を今ここで起こった現実のように感じること」「思考を真実であると信じ込むこと」をフュージョンと呼びます。

「ああ、俺はなんて馬鹿なヤツなんだ」と思ったとき、それが現実など感じたなら、フュージョンが起こっているとみるようです。

「ああ、俺はなんて馬鹿なヤツなんだ」はただの言葉です。そういう言葉を頭で思い浮かべただけです。事実でもなんでもない。エビデンスを多少並べたところで、真実であると言いきるのは難しいでしょう。でも、「ああ、俺はなんて馬鹿なヤツなんだ」という脳内の言葉は心を突き刺します。

ここで使えるのが、脱フュージョンという方法です。ひとつには、心を突き刺すその言葉をハッピーバースデーの節回しで歌うことを本書は勧めています。

「あ〜あ♪ 俺はなんて♪ 馬鹿なヤ〜ツ♪ なんだ♪!」

馬鹿らしくて、事実かもという認識がぶっ飛びますね。さすがです。あと、「わたしはバナナだ!」みたいな荒唐無稽なセンテンスでフュージョンが起こらないことを確認するのもいいようです。

「わたしはバナナだ!」と「ああ、俺はなんて馬鹿なヤツなんだ」には、ただの言葉ですし、さほど違いはありません。それなのに、多くの人は後者は本当だと思い込みがちです。面白いですね(当人は面白くない)。

本書は、ネガティブな思いをもつこと自体は問題ではないと言っています。しかし、それが現実だと思い込み、生活を蝕むことは問題だとしています。

ここで落ち着いて、自分の頭に浮かんが言葉を事実と容易に結びつけないために、メタ認知の活用が必要になります。本書では、「思考する自己」と「観察する自己」という言葉で区別され、「観察する自己」がいわゆるメタ認知です。

大事なのは思考が事実かどうかではなく、役に立つかどうかであると本書は言い切ります。すがすがしいですね。ネガポジはどうでもよいのです。

あなたは思考を信じるべきだろうか? もちろんイエスだ。しかし、役に立つものだけに限る。そして、それさえもほどほどにしておこう。思考を信じる場合でも、それらは単なる言葉でしかないことを覚えておこう。
(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』)

あるがままを受け入れる

心に浮かぶ色々の言葉はさておいて、自分がどのような状況に置かれているのかはまず、ニュートラルに捉える必要があります。自分の大事な人が遠く故郷で重い病気に罹ったとしたら、心は「もうダメかもしれない」などと喚き立てますが、一旦置いておいて。

あきらめや、負けを認めることとは違う。歯を食いしばって耐える必要はない。現実に対して自分の心を完全に開き、「今・ここ」の現実を認める。そして今この瞬間に起きている人生の闘争を解き放ってやるのだ。
(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』)

まずは、「思考する自己」が行おうとする悪あがき——闘争と逃走——をストップさせるのです。すべてはそこからです。

僕がたびたび引用するニーバーの祈りをもう一度。

神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
  —— ラインホールド・ニーバー

あるがままをの状況を受け入れるために、それを好きになる必要はないといいます。そりゃそうです。大事な人が大変なときに、その状況が好きなわけはありません。でも、まずは状況を落ち着いて観ることから始めます。

メタ認知は価値判断をしません。ただ見ているだけです。これを利用するのです。

本書のいわく、あるがままを受け入れるのは、一度ではないのです。受け入れ続ける。努力の継続がなければ、すぐに受け入れられなくなるのです。だから、ひとり言などで、なんとか自分を落ち着かせるのがいいと言います。

この感情は好きではないが、居場所をつくってやろう。(ひとり言)

うっかりすると、僕などは、「こんなことをやっている場合じゃない。ああ〜!」とか「いったい何のために生きているんだろう……」とかの状態になってしまいます。そのたびに、受け入れ直すのです。

我観察する、故に我あり

メタ認知は非常に強力な武器でありつつ、その人の存在にとって極めて根源的なものです。

あなたの思考や浮かんでくるイメージは常に移り変わっている。(中略)心と同様、身体も変化していいる。現在のあなたの肉体は、あなたが赤ん坊の時や、子供の時のものは違う。(中略)
あなたの役割というものも人生を通して常に変わり続ける。その時々で、親、子供、兄弟姉妹、叔母、叔父の立場となる。別の場面では依頼人、顧客、患者、介護者、助手、雇用者、従業員、請負業者、市民、友人、敵、学生、教師、アドバイザー、指導者、訪問者、旅行者、などなど。(中略)
だが、観察する自己は変わらない。それは、他のすべて、思考、感情、感覚、役割、肉体などを観察し続ける視点なのだ。そして視点自体は決して変化しない。(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』)

こう考えると不思議な感じがします。普段、「思考する自己」を主として生きているような感じがしますが、「思考する自己」は変わり続け、「観察する自己」は常に不変なのです。さて、どちらが本当の自分なのでしょうか。

……どちらが本当かは誰もしれないので、脇に置いておくにしても、僕たちはもう少し、メタ認知としての自分を大切にしてもいいのかもしれません。物心ついたときから、何も変わらずに存在するんですから。

価値と目標を混同しない

ここまでで、とりあえず落ち着くことができたとします。次は行動のターンです。となると、どういう風に行動するのか、その指針が必要になります。ここでは、価値と目標というふたつのゴールが示されます。ここでの「価値」は一般的には「夢」と呼ぶようなものですね。

 ・価値: 目指す方向。終わりのない進化のプロセス
 ・目標: 望んでいる成果。達成可能なもの

価値とは、西を目指して旅するようなものだ。どこまで行こうと西はさらに向こうまで広がっている。一方、目標は山や川のようなものだ。そこへ行ってしまえば、それで目標達成なのだ。
(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』)

会社経営の場合、目標は売上だったり、市場占有率だったりするのでしょう。一方、価値は「地球上のすべての人を最先端技術でエンパワーする」などでしょう。価値として掲げるものがなければ、いくら目標があっても空虚です。

個人なら、目標は大学に入学するための試験をパスするとか、資格を取るとかでしょうか。一方の夢は、学者として知の最先端の世界で生きたいとか、ヨーロッパの片田舎で静かに暮らしたいとかになるのかなと思います。

本書では、死者のほうがうまくできることを目標にしないように、と面白いことを言っています。たとえば、ダイエットのために食事を抜くなどというのは死人のほうがうまくできます。カロリー計算をして、必要な運動を計画する、食べる量を調整する、楽しく運動できる方法を考案するなどは生者のほうがうまくできることです。なるほど。

また、お金持ちになることは価値(夢)ではないといいます。これは目標であり、達成されればリストから消えるものだからです。つまり逆に言えば、価値とは、リストから消えないもの、常に追い求めるものということになります。

たまに、「夢に日付を付けろ」と言う人がいますが、それは違うということになりますよね。せいぜいが「目標に日付を付けろ」でしょう。

ほかに、大勢から愛されることもまた価値(夢)ではないと言えそうです。これも達成されればリストから消えるからです。大事なのは、なぜ愛されたいのかです。愛があれば不安がなくなる? ありのままでいられる? では、そちらが価値(夢)のはず。大勢の承認がなくてもありのままでいられる方法を模索したほうが手っ取り早いはずです。そちらが本質なんですから。

カンフル剤としての積極性

さあ、いよいよ行動です。ところで、「順を追って」「段階を追って」ということが通用しない場合があります。エイヤでやってしまう必要があることがあります。いわく、

ふたまたぎで深い裂け目を飛び越えることはできない

なるほど、世の中のすべてがステップを踏んで一歩一歩進めるわけではないんですね。

というか、僕が昔やっていた空手もそうでした。敵の懐に飛び込むときは一歩です。どんな距離からでも一歩です。二歩も三歩も掛けて悠長にやっていると殴られます。

幸せになる勇気』のときも、結局ここが肝心だったのですが、行動には努力や勇気が必要になります。諦めの悪さがものを言います。何度でも立ち上がるのです。ボロボロの人に言うには、酷なこととは思いますが。

辛いこと、悲しいことは起こります。それが起こることを許し、心の中に居場所を与えるのです。辛さや悲しみを背負って進むのです。

常に最後は、前に進むことを選択するのです。ニーバーの祈りのとおり、コントローラブルなものだけを相手にして、後は全部そのままにしておくのです。波立つ心でサーフィンをするのです。

三回にわたって幸福について考えてきましたが、幸福になるための方法というのは、色々と直感に反するようです。成功を狙いすぎるのは却ってよくないとか、幸福には勇気と努力を要するとか、悲しみや不安に抗わず共生するとか。

大事なのはメタ認知でしょうか。それをもって、落ち着いて状況を観て、少しでもマシなほうに自分自身を動かしていく。人生、それの連続に過ぎないのかもしれません。

もっとも、自分を少しでもマシなほうに動かせるようになるだけでも、相当に精進の必要なことだとは思うんですけどね。

さて、瞑想でもして、心を落ち着けますか……。

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