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幸福について駄弁る②

安定——あらゆる種類の安定——に基づいた道徳に依拠している人々は道徳的ではありません。なぜなら、安定願望は恐怖の結果だからです。私たちが道徳と呼んでいるものは恐怖と強制であって、実は少しも道徳的ではないのです。
 —— クリシュナムルティ

前回は仕事人としての幸福について考える回だったのですが、今回はもっと、プリミティブなほうへと降りていってみましょう。

今回のダシ(失礼)は、アドラー心理学を取り扱った二冊、『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』です。

僕は心理学の専門家ではないので、アドラー心理学とはなんぞやという話には触れずに行きたいと思います。また、僕のことを嫌いな人がこれを読んでいたとして「嫌われる勇気って今更なんじゃ、わしはお前のことは嫌いやぞ」みたいな苦情は受け付けません。ご了承ください。

すべての悩みは「対人関係の悩み」

さて、いきなり劣等感を丸出しにしたところで、『嫌われる勇気』では、劣等感というのは主観的な思い込みに過ぎないと言ってのけます。

物事は単にそこにあるに過ぎないし、出来事は単に起こるだけです。それに意味づけをするのはわれわれ人間の勝手な操作です。

たとえば、歳の近い友達が仕事で大ヒットを飛ばし、時の人として有名誌の取材を受ける。超かっこいい写真とともに記事になって世界に発信される。これ自体は単に出来事に過ぎません。けれども、心の奥底でチリチリとなりかが燃えている。

それは劣等感です。これをうまく取り扱って、いずれ来たるべき雄飛の日のための活力に変えられたなら、まあよいのでしょう。しかし、この劣等感がひねくれ始めると、劣等コンプレックスというものになるそうです。

劣等コンプレックスは自分がうまく行かない理由をつくり始める現象のことだそうです。うまくいかないのは学歴がないからだとか、イケメン/美女じゃないからだとか言い始めたら危険です。努力の忌避が始まります。

こうなると、スパイラル式に崩れ落ちていくだけです。うまくいかない→自分の○○がダメだからだ→うまくいかない→やはり自分の○○がダメだからだ→以下省略。

逆に、やたらと自慢したがる人も劣等感を抱え、それをこじらせています。この場合は、優越コンプレックスというそうです。「俺は学歴はないが、人を見る目だけはある」とか、仕事はまだぱっとしないのに「東大卒ですよ、俺」とか言いだす人はそのたぐいのようです。

どのみち劣等感というのは取り扱いをミスると厄介なことになりそうです。前回、嫉妬の感情は何の役にも立たないと言いましたが、それの状態になります。

『嫌われる勇気』によると、劣等感のこじらせを解消するには、ただ前を向いて歩いて行けばいいということのようです。人と比較するな、自分とだけの戦いである、と。

他者と競うと碌なことにならないというのが、以下の引用箇所です。

競争の恐ろしさはここです。たとえ敗者にならなくとも、例え勝ち続けていようとも、競争の中に身を置いている人は心の安まる暇がない。(『嫌われる勇気』)

たとえ敗者にならなくても、心の安まる暇がない。これは恐ろしいフレーズです。人に勝つことは一瞬の快楽になるかもしれませんが、長期の幸福を約束しないわけです。なんとまあ、競争の恐ろしいことか。

承認欲求を否定する

他者評価でしか自分の幸せを測れない人がいます。前回も他人の評価は当てにするなと書きましたが、またも同じようなことに触れます。アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定し、次のように言っているそうです。われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」

自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか。
  —— ユダヤ教の教え

たとえば、怒り散らす人がいます。その人は、「お前のせいでこうなったんだ。どうにかしろ」と言います。けれど、『嫌われる勇気』は、落ち着き払って、こう言います。これは誰の課題なのか?

いや、「お前のせいだ!」と言われている局面でも、このことを考えるのです。そして、言うのです。

「これは私のせいではありません。あなたの怒りはあなたの問題です」

たぶん、というかほとんど確実に、面と向かって言ったら激昂されるでしょうね。なので、そういうメンタリティでいきましょうということです。

上記は怒る場合の話ですが、逆にまた、褒めてもいけないといいます。これは意外ですし、面白いですね。なぜ褒めてはいけないかというと、褒めることで上下関係がができるからです。

「わたし」の価値を他者に決めてもらうこと、それは依存です。一方、「わたし」の価値を自らが決定すること、これを「自立」と呼びます。(中略)
いいですか、「人と違うこと」に価値をおくのではなく、「わたしであること」に価値をおくのです。それが本当の個性というものです。
(『幸せになる勇気』)

怒られようが、お前のせいだと言われようがどこ吹く風。また、素晴らしい、よく出来た、えらいと言われようが知ったこっちゃない。自分のやるべきことを自分で決めて実行し、自分で結果を判断する。そうやって心の安全地帯はつくられていくようです。

自立と尊敬

さて、ここで「自立」という言葉が出てきました。依存と自立、このふたつを結びつけて考えているところからするに、人の幸福は自立の中にあると示唆しているように感じますね。

褒めるとか叱るとかは、親とか教師とか上司とかが「目下の者」にやることとされていますが、この行為を「教育」と呼んだ場合、親・教師・上司などは「目下の者」の「自立」を促す存在でなければならないということになります。

けっして、自分に隷属させるようであってはいけない。

尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
尊敬とは、その人がその人らしく成長・発展していけるよう、気遣うことである。
 —— エーリッヒ・フロム

相手の「自立」を促すことは相手を尊敬することと繋がっています。逆に言えば、相手を尊敬していない人は、相手の自立を望まないということです。そりゃそうですよね、相手を自分の奴隷にしようとしている人が、相手のことを尊敬しているとは言えません。

怒ることと叱ることは同義であると『幸せになる勇気』は言います。どれだけ両者は違うのだと反論しようとも、「あなたは銃を片手にコミュニケーションをとっている」のだと言われれば、その通りと言わざるを得ないのではないでしょうか。

教育者とは叱る人ではないようなのです。教育者はカウンセラーです。褒める人でもありません。

そうすると、また別のものも浮き上がってきます。愛する人との付き合い方です。承認を与えること、称賛を与えることは愛でしょうか。すごいね、えらいねと言うのは恋人のすることでしょうか。

愛は「落ちる」ものではない

アドラーは愛について次のように語っています。「愛とは、一部の心理学者たちが考えているような純粋かつ自然的な機能ではない」。築き上げるものです。「落ちる」だけの愛なら誰にでもできます。そんなものは人生のタスクと呼ぶに値しない。(『幸せになる勇気』)

これは僕も間違いがちなところですが、愛はお話のように「ビビッとくる」「運命に翻弄される」「情熱に浮かされる」ようなものではないのです。お話としてはそのほうが面白いのですが、現実を直視したほうがいいようです。

愛とは元々見知らぬ他人とふたりで協力してつくっていくものです。赤の他人同士なんですから、お互いに努力が必要です。当たり前です。それを、努力が必要な相手なんて間違っている、と切り捨てることの多いこと。

誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。
  —— エーリッヒ・フロム

傷つき、倒れ、何度も立ち上がる。何度も繰り返し再挑戦する。そうして築き上げるものです。

「わたし」から「わたしたち」へ

「愛を知り、人生の主語が『わたしたち』に変わること、これは人生の新たなスタートです」と『幸せになる勇気』では語られます。僕たちは、「わたしたち」で主語を語ってきたでしょうか。「ぼくが」「わたしが」で語ってばかり来なかったでしょうか。

人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中では愛することを恐れているのである。
愛するとは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるであろうという希望に、全面的に自分を委ねることである。
  —— エーリッヒ・フロム

本書のタイトル『幸せになる勇気』は「愛するという勇気」なのではないかと思うフレーズです。愛は勇気です。尊敬と同じく、愛は「よこせよ」と言って与えられるものではありません

「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばきっとそこにあるもの」という歌もありましたが、基本的には築き上げるのに勇気と努力が伴うものです。その努力を楽しめたとき、「そこにある」という幸せな感覚になるのかもしれません。が、基本的には勇気と努力の産物です。

人と争うことをやめ、人から承認されることを望むのをやめ、自分で自分を承認し、前を向いて歩くこと。これがまず第一歩。

そうして自立を獲得し、勇気を持って他者との愛の関係を築き上げる努力をすること。血反吐を吐いても不断の努力をすること。

まさに、幸福は勇気によってもたらされるのだと感じ入るばかりです。一方で、そんな勇気なんて持てないくらいボコボコだよ。ガス欠だよ。誰か助けてくれ……という人もいるでしょう。

来週ももうちょっと、幸福について考えてみたいと思います。

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