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地方の問題と「ストーリー」

ちまたでは、「地方の時代が来る」と言われています。

その文脈は様々で、インターネットの時代だからとか、コロナ禍の時代だからとか、少子化対策だとか、将来の大災害に備えて東京一極集中を避けるべきだからだとか、色々あるような気がします。

でもどれもこれも、「地方の時代が来てほしい」という願望にすぎないように感じられます。

うちの父方の祖父は、若い頃に立身出世のために香川から大阪へやって来たようです。少なくとも江戸時代中盤からは長子続きの家系の長男で、立場は悪くなかったのだろうと推察されるなかで。

母方の祖父は真逆で、(複雑な事情があるのですが)村の権力者の横暴に嫌気がさして、集団で鹿児島から大阪に出てきたうちのひとりだったようです。

地方から都会に人が移るのには理由があったわけです。いまでも、地方ではやりたい仕事がない(種類が少ない)とか言われますし、女性の場合は差別——というか、女性であるだけで当然のように押しつけられる雑用や、向上心は捨てろという圧力——に嫌気がさして出てくる人も多いようです。

都会に人が流れる仕組みは厳としてそこにあるのに、本当に、ちょっとした理由で人々が地方に回帰したりするのでしょうか。

地方の人口減少は結果

今回の関連図書はこちらです。毎度のことながら、本に触れつつも勝手な意見を展開しますのでご了承ください。

本書ではコロナ禍でも東京一極集中は解消していないと述べられています。原因はさまざまにあるでしょうが、地方の産業が都会頼みになり、高等教育も都会頼みになっているので、仕組み上無理からぬことであるようです。

こんななかで、地方に人口さえ帰ってくればすべて解決するのになあというのはガバガバなロジックです。そもそも、出て行った人たちが帰ってきても、支えなきゃならないお年寄りが多すぎる。そしてお年寄りが変化を望まない。日本全国で人口が減っているのに。このままでは無茶です。

無茶なのに、都会頼みの産業構造に倣って、折角降ってきた地方交付税交付金を在東京のコンサルや広告代理店に投げ込んで、一過性の地方創生ビジネスをやる。そして東京都の法人税として帰って行く。なんだこれ。なんだこれですよ。

少人数でも付加価値でレバレッジを掛ける

解決の糸口として、本書では、生産に関わる人口が少なくてもたくさん稼いでいる例として、ブランドものワインで儲けるフランスの村の話が挙げられています。

たしかに、フランスをはじめとして、欧州各国のひとりあたりGDPは日本と同じかそれ以上です。日本は工業国を自認しています(それもちょっと古いんですが)が、フランスのような国は、ファッション、化粧品、ワインなど、文化を売り物にして稼いでいます。

なにもハイテクだけが稼げるビジネスではないんですよね。語弊はあるかも知れませんが、欧州はブランディング力でごはんを食べている側面はありそうです。

ところで、日本の地方は都会の後背地となり、都会に頭脳と労働力を供給してきていました。都会に行かずに地方に残った労働力は、都会に製品・部品を安く届ける人材と化しました。

現状、地方のメリットは安さだということです。「安くたくさん」でこれまでやってきたわけです。これは事実なのでしょうが、これをこのままやり続けなければならないという思い込みは、ある種の呪いのようなものです。

奇妙かつ恐ろしいことに、値段を上げようとすると、安くたくさんでの成功体験のあるお年寄りたちから反発を食らうのだそうです。地元の若者の労働力を安く都会に売っているのは、地元のお年寄りなのだとか……。

脱線しますが、僕はかつて四国を旅行したときに、道すがら立ち寄った香川県の寂れたうどん店で、これまで食べたことがないような美味なうどんを食べました。まだ香川県が「うどん県」とか言いだす前でした。

あまりにも美味しかったので、近くに座っていたおじいさん(客)に、「これめちゃくちゃ美味しいのに安いね」と話しかけたのですが、「うどんごときに金が出せるか」と笑われました。うどんごとき。たしかに地元の人のお財布を圧迫する額では困るでしょうが、このうどんの価値が見えていないのだなとびっくりしました。

モノ経済の復権

さて、元の路線に戻ってきます。本書では、「地方の○○」と言えば、何でもかんでも観光だとなってしまうと指摘しています。いわゆる体験、コト経済ばかりが称揚されていると。

モノ経済も国内消費においては極めて大きなボリュームを持っているのだということです。確かに、フランスの大富豪、ベルナール・アルノーがやっているビジネス(LVMH; モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)は純然たるモノの販売ですね。マイクロソフトやグーグルのようなデジタル産業でさえありません。

幸いなことにこのインターネット社会は、情報だけでなく、モノへのアクセスも容易にしてくれています。いまや日本のどこに住もうとも、日本のどこからでも買い物ができる時代です。わざわざ現地の商店まで行く必要なんてないのです。

僕だって東京に住みながら、鹿児島県内限定の焼酎を常にストックしています。インターネット通販で、そういうことができるんです。

流通がしっかりしている。これは日本が誇れる底力だと思います。地味なので語られることはそう多くないですが。これを活かさない手はない。

田舎の空気やいかに

さてさて、ここまでは地方の経済の話をしてきましたが、地方に人が回帰することはあるのでしょうか? 冒頭で述べたような、若者が地方を去るような状態が解決していない限り、誰も戻ってくるはずはありません。

まだ、そこまでドラスティックではないにしても、嫌な空気が残っている地域はあるようです(すべての地域ではないようですが)。

外から来た成功者を収奪者とみなして妬む。それだけならまだしも、「うちの商売が上手く行かないのは人が減ってるせいだ」という理由を潰すような成功者には相当過剰に反応するようです。

これでは結局、成功者が外の地域に逃げ出すという状況をわざわざつくっているようなものです。人材をわざわざ逃す仕組みは健在というわけです。

あと、これは田舎に限らず、都会の大企業でもありがちな話だとは思うのですが、「みんな」で決めたがるというやつです。これも曲者です。

反対したり意見したりすると角が立つので、失敗が目に見えていても、ムラの決定に賛成するのです。「みんながいいならいいです」と。これ書いてて思うんですけど、この病、本当に、本当に田舎に限った話ではないな、と。

ここで必要になるのは侃々諤々の議論です。それも、きちんと目的を見据えた清々しい議論です。それがいつの間にか、「舐めてるのか」「馬鹿にしてるのか」みたいな面子の話になりがちです。議論というツールは課題解決のためにあり、上下関係を示すためにあるのではないのですが、どうも後者側のスタンスの人は多いです。

田舎では「都会の大学出たようなボンボンには解らないだろうけど」などと言われ、都会の会社では「その意見は○○部さんの面子が立たないから今回は譲ろう」と言われ……。どちらにしても、中身の話がまともにできないうちは衰退に向かうだけです。

地方経済の時限爆弾

さて、地方では年金支給日に消費が拡大するそうですが、この傾向だって永久に続くわけではありません。年金によって維持されている経済って、そもそも恐ろしい感じがしますね。

本書でも取り上げられているのですが、今後地域金融機関の預金は都市銀行に移転するだろうと予想されています。ほかにも、2015年には団塊の世代の一斉退職が始まって、貯蓄よりも取り崩しの方が多くなるなんて言われていましたよね。預金構造の変化がどんどん起こっています。

こうなると、地域金融機関はピンチです。親や祖父母世代は地方銀行や地方信金にお金を預けていたかもしれませんが、それが遺産相続で子に移転したときに、子が都会に住んでいるケースが多くあるからです。放っておけば、そうなる未来は避けられません。

ならば、これに抗うにはどうすべきか、を考える必要があります。というか、当事者のみなさんはもうずっと考えているはずです。

ここからはただの持論です。

地域金融機関は目を皿にして、地元を支えてくれるような新しい企業を探していることと思います。ただ、上記の流れを考慮すると、コト経済に注力するでもなく、モノ経済に焦点を当てても良いのだと思います。

それこそ、都会帰りの人々の目が活かされるでしょう。地元でしか生きていない人は、地元の何が素晴らしいのかを取り違えています。下手をすれば、地元にやって来た劣化版都会みたいなものをありがたがっている。

昔の漫画でありましたが、ダイヤモンドが石ころのように転がっている星では、それらは別にありがたいものではないのです。ここで、外の目が入ることで、石ころの価値を見いだして別の星に売りに行くという裁定取引が発生します。

外の人(ただし元は地元の人)の知識と目を活用して、地元を愛する地元の人と協力して未知なる文化的価値を掘り出す。そこへ、ESGでもSDGsでも名目は何だっていいので、地元の資本を投下する。そうやって、地元のブランドストーリーを創りあげていく。

そうやってこそ、地方の不稼働資産たる文化や歴史・物語が最大限に活かされるのだと思います。また、そういう地域活性活動をしている地方金融機関であれば、都会に住む子世代も預金を寝かせ続けてくれるのではないか、などと思ったりするのです。

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